また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一(ゆいいつ)貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、先述した青木昆陽と野呂元丈(のろげんじょう)です。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
さらに吉宗は、幕府に殺到(さっとう)する訴訟(そしょう)への対策も考えました。1719年に相対済し令(あいたいすましれい)を出したことで、金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させるようにしたのです。但し、借金を棒引きしたいわゆる徳政令(とくせいれい)とは違いますので、区別する必要があります。
なお、吉宗の時代に行われた他の法令関係の事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典(ほうてん)の導入を目的に1742年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名です。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 田沼の時代に開国して、蝦夷地の国境を確定していれば、もしかしたらカラフトや千島はいまも帰属していたかもしれないし、あるいはアイヌ自治道もありえたかもしれません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 田沼の時代に開国して、蝦夷地の国境を確定していれば、もしかしたらカラフトや千島はいまも帰属していたかもしれないし、あるいはアイヌ自治道もありえたかもしれません。
私もそう思います。詳しくは後日の田沼時代の際に改めて紹介しますね。
樺太
ろっぽん この辺のことは昨年、アイヌ民話をコミック化した時、調べてはじめてきずいたのですが、
北方領土のことをいうとき千島のことだけでますが
アイヌ民俗は松前藩に帰属させると決めたわけです
樺太にもアイヌが住んでいたわけです。
それから考えると、樺太も日本領な訳です
なるほど田沼時代ですか。
現代は情報が多すぎまた原発情報のように嘘情報が多い、かえって少ない方がより創意工夫できるじゃないですかね、それにしても当時の日本人技術を具体化する知識欲はすさまじいですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 田沼時代に本格化する蝦夷地の開拓計画は、吉宗がその種をまいているんですよね。
樺太については幕末の日露和親条約では雑居地となりましたが、それまでの探検を含む意欲には仰るとおり凄いものがあると思います。
恵まれすぎると、かえってそれを頼りに退化してしまうものなのでしょうね。
ぴーち こんにちは!
確か、開国時のペリーとの対話の時は英語ではなく
オランダ語で行われた様ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確か、開国時のペリーとの対話の時は英語ではなく
> オランダ語で行われた様ですね^^
そのとおりです。
日本語→オランダ語→英語の順で通訳されています。オランダと貿易をしていた関係でこうなりました。
アメリカと国交を結んで以降は英語を話せる通訳が必要となり、ジョン万次郎らが活躍することになります。
HANA子 公事方御定書とか学校の授業だとさらっと流しちゃうんですよね
それまで先例と慣習によって成文化されていなかった基本法令をきちんと成文化した幕府の法典としてけっこう重要なものなのにって思うんですけどっ
確か刑事裁判に関する判例とかもまとめてあったはずですし
いつも思うのですが、「どこそこが日本を統治しました、まる」の様な結論が先行する学校の授業が歴史に対する興味や学習意欲を奪っているのではないかなと
掘り下げれば掘り下げるほど面白いものが湧き出してくるのになと思うばかりです
HANA子さんへ
黒田裕樹 公事方御定書についてはまさにそのとおりです。
今回は詳細を略しておりますが、歴史の学習は仰るとおり「掘り下げてナンボ」ですからね。
これからもできる限り追究していきたいと思います。
漢訳洋書
ろっぽん なるほど漢訳洋書が技術書と出回っていて
そういうので南蛮土木などが普及し新田開発、干拓
運河などの工事が可能だったのか
仙臺藩などラン語の読める人物があまりいないのになぜ貞山運河や鹿島台の沼の干拓をよくやったと疑問でした。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 そうですね。戦国時代までのに加えて、それ以降の技術も漢訳洋書によって広まった功績は大きいと思います。
私もそう思います。詳しくは後日の田沼時代の際に改めて紹介しますね。
北方領土のことをいうとき千島のことだけでますが
アイヌ民俗は松前藩に帰属させると決めたわけです
樺太にもアイヌが住んでいたわけです。
それから考えると、樺太も日本領な訳です
なるほど田沼時代ですか。
現代は情報が多すぎまた原発情報のように嘘情報が多い、かえって少ない方がより創意工夫できるじゃないですかね、それにしても当時の日本人技術を具体化する知識欲はすさまじいですね。
樺太については幕末の日露和親条約では雑居地となりましたが、それまでの探検を含む意欲には仰るとおり凄いものがあると思います。
恵まれすぎると、かえってそれを頼りに退化してしまうものなのでしょうね。
確か、開国時のペリーとの対話の時は英語ではなく
オランダ語で行われた様ですね^^
応援凸
> オランダ語で行われた様ですね^^
そのとおりです。
日本語→オランダ語→英語の順で通訳されています。オランダと貿易をしていた関係でこうなりました。
アメリカと国交を結んで以降は英語を話せる通訳が必要となり、ジョン万次郎らが活躍することになります。
それまで先例と慣習によって成文化されていなかった基本法令をきちんと成文化した幕府の法典としてけっこう重要なものなのにって思うんですけどっ
確か刑事裁判に関する判例とかもまとめてあったはずですし
いつも思うのですが、「どこそこが日本を統治しました、まる」の様な結論が先行する学校の授業が歴史に対する興味や学習意欲を奪っているのではないかなと
掘り下げれば掘り下げるほど面白いものが湧き出してくるのになと思うばかりです
今回は詳細を略しておりますが、歴史の学習は仰るとおり「掘り下げてナンボ」ですからね。
これからもできる限り追究していきたいと思います。
そういうので南蛮土木などが普及し新田開発、干拓
運河などの工事が可能だったのか
仙臺藩などラン語の読める人物があまりいないのになぜ貞山運河や鹿島台の沼の干拓をよくやったと疑問でした。