一方、水戸藩の徳川光圀(とくがわみつくに)は藩の総力を挙げて紀伝体(きでんたい、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法)の大日本史(だいにほんし)の編纂を始めました。大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり、後には水戸学(みとがく)と呼ばれた尊王思想(そんのうしそう)に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えました。
このほか、山鹿素行(やまがそこう)は中朝事実(ちゅうちょうじじつ)を著(あらわ)して、儒学の流行による中華思想(ちゅうかしそう)を批判し、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにしました。また、新井白石(あらいはくせき)は古代史を研究して古史通(こしつう)や読史余論(とくしよろん)を著しました。
ちなみに、大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手以来250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成しました。また中朝事実は明治の軍人であった乃木希典(のぎまれすけ)が、明治天皇(めいじてんのう)に殉死(じゅんし)する直前に、若き日の裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇=しょうわてんのう)に献上しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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嶋田不二雄 乃木大将が中朝事実を先帝陛下に献上していたとは知りませんでした。
また一つ勉強になりました。
ぴーち こんにちは!
実際的には水戸のご老公様は
全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
応援凸
オバrev 何と!大日本史は250年かけて完成したとは工エエェェ(´д`)ェェエエ工
ほとんど江戸時代を通じて編集されてたんですかぁ?
山鹿素行の名前は日本史で習いましたが、その思想までは知りませんでした。
ぜひその内容を詳しく知りたいですね。
嶋田不二雄先生へ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
当時10歳の昭和天皇に対する帝王学として最高の書だと思ったからこそ推薦したのでしょうね。
今からちょうど100年前の話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 実際的には水戸のご老公様は
> 全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
大日本史の編纂は幕末の水戸学の発端にもなりましたし、尊敬されるべき存在であったことも大きいと思われます。加えて、幕末の烈公(水戸斉昭)が「水戸黄門伝説」の形成に関わっているという説もあるようです。
> 昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
そうですね。乃木大将が殉死した際の当時の親王の衝撃の大きさは想像を絶するほどだったのではないでしょうか…。
オバrevさんへ
黒田裕樹 大日本史は中断の時期があったものの、江戸時代から明治末期までずっと編纂され続けた奇跡の書ですね。
光圀公の執念がうかがえる思いがします。
山鹿素行の精神は武士道の潔さなどに活かされているようです。
忠臣蔵の世界観がその好例といえるのでしょうか。
また一つ勉強になりました。
実際的には水戸のご老公様は
全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
応援凸
ほとんど江戸時代を通じて編集されてたんですかぁ?
山鹿素行の名前は日本史で習いましたが、その思想までは知りませんでした。
ぜひその内容を詳しく知りたいですね。
当時10歳の昭和天皇に対する帝王学として最高の書だと思ったからこそ推薦したのでしょうね。
今からちょうど100年前の話です。
> 全国行脚はしなかったというのが定説になっているようですが、その様な実しやかな説の発端は、この大日本史なる存在が影響しているのでしょうか?
大日本史の編纂は幕末の水戸学の発端にもなりましたし、尊敬されるべき存在であったことも大きいと思われます。加えて、幕末の烈公(水戸斉昭)が「水戸黄門伝説」の形成に関わっているという説もあるようです。
> 昭和天皇にとって乃木希典は尊い人生の師でもあったんですね^^
そうですね。乃木大将が殉死した際の当時の親王の衝撃の大きさは想像を絶するほどだったのではないでしょうか…。
光圀公の執念がうかがえる思いがします。
山鹿素行の精神は武士道の潔さなどに活かされているようです。
忠臣蔵の世界観がその好例といえるのでしょうか。