しかし、信綱の動きを察(さっ)した佐賀藩(さがはん)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜(ぬ)け駆(が)けをしたために一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統(しきけいとう)が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を幕府は受けてしまいました。
一方の一揆勢も壊滅状態(かいめつじょうたい)となって天草四郎は討(う)ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮(しず)められましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく大名としては異例の斬首刑(ざんしゅけい)に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自殺して寺沢家は御家断絶になりました。また抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けるなど、幕府による厳しい処置が目立ちました。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 乱といってあるが、戦争ではないのですね
一揆勢が防衛的武装をして、対抗した
江戸時代のころの一騎と違って天草らの大名+キリスタン農民の抗議行動を幕府が鎮圧(弾圧)したのが、現実でしょう。
あんまり教科書で教えていませんが、
江戸中期に松前でアイヌのシャクシャインの乱というのも起きていてやはり十万人規模の内地軍で
南部藩、仙臺藩が鎮圧しています。
疑問なのですが、なぜ弱いものいじめに十万単位で弾圧する必要があるのかと?だ
これは現代でも中東に米がやってる力の論理や中国のチベット弾圧しかりである。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かにこれは戦争級ですね。
島原の乱にしてもシャクシャインの戦いにしても、負けたほうからしてみれば確かに「弱い者いじめ」にしか見えませんが、逆に言えばそれだけ幕府は「強い」相手に負けることを恐れていたのでしょう。もし本当に弱い相手ならば兵力をもっと減らすことが可能でしたでしょうし。
我が国に限らず「勝者からの歴史」の視点は意見の分かれるところです。
ぴーち こんにちは!
天草四郎というカリスマ性を持つ人物を主導者にしたことで、求心力が高まり、より強力な勢力として幕府と戦ったのでしょうけれど、やはり到底、幕府の勢力には敵わなかったのですね。幕府もその威信を掛けての戦いであったからこそ、より厳しい処分が言い渡されたのでしょうけれど、これによってまた新たな報復が生まれはしなかったのでしょうか。。
応援凸
松平信綱
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、『島原の乱』が単なる弱い者いじめと思っていました。
しかし、時の老中の松平信綱が陣頭指揮を取り
幕府側の死者が1000人、負傷者が1万人というのは、単なる一揆鎮圧ではなく、戦いそものですね。
あるドラマで、松平信綱が
一揆側の心情的に同情しながら、『それでもしなければいけない。苦しい心情』を漏らすものがありました。
その証拠と言えるのが、松倉勝家、寺沢堅高に対する厳しい処分です。
通常、幕府がここまで、厳しい処分をするのは、異例中の異例です。
もし、松平信綱が、キリスト教を理解していたとしたら、一揆勢が死んで、天国に行けることが彼らにとっての幸福と考えたのは、考えすぎでしょうか。。(キリシタンは、自害を禁じられていたので)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の乱によって島原と天草にはほとんどの農民がいなくなってしまったため、諸藩から移住者を募りました。その後は基本的に善政が敷かれたため、大規模な反乱は起きなかったとされています。
住民が入れ替わってしまったことや、離島の多い天草では隠れキリシタンを探すのが困難であったことなども大きかったと思われます。
青田さんへ
黒田裕樹 「知恵伊豆」と評された松平信綱ですから、幕府のためが第一主義であっても、キリシタンに対する配慮はあったかもしれません。
と同時に、一揆勢をそれこそ根絶やしにしたことは、かつての信長がそうであったように反逆を封じるための「当然の手段」だったかもしれないですね。
賢者は歴史に学びます。
一揆勢が防衛的武装をして、対抗した
江戸時代のころの一騎と違って天草らの大名+キリスタン農民の抗議行動を幕府が鎮圧(弾圧)したのが、現実でしょう。
あんまり教科書で教えていませんが、
江戸中期に松前でアイヌのシャクシャインの乱というのも起きていてやはり十万人規模の内地軍で
南部藩、仙臺藩が鎮圧しています。
疑問なのですが、なぜ弱いものいじめに十万単位で弾圧する必要があるのかと?だ
これは現代でも中東に米がやってる力の論理や中国のチベット弾圧しかりである。
島原の乱にしてもシャクシャインの戦いにしても、負けたほうからしてみれば確かに「弱い者いじめ」にしか見えませんが、逆に言えばそれだけ幕府は「強い」相手に負けることを恐れていたのでしょう。もし本当に弱い相手ならば兵力をもっと減らすことが可能でしたでしょうし。
我が国に限らず「勝者からの歴史」の視点は意見の分かれるところです。
天草四郎というカリスマ性を持つ人物を主導者にしたことで、求心力が高まり、より強力な勢力として幕府と戦ったのでしょうけれど、やはり到底、幕府の勢力には敵わなかったのですね。幕府もその威信を掛けての戦いであったからこそ、より厳しい処分が言い渡されたのでしょうけれど、これによってまた新たな報復が生まれはしなかったのでしょうか。。
応援凸
こんばんは
青田です。
私は、『島原の乱』が単なる弱い者いじめと思っていました。
しかし、時の老中の松平信綱が陣頭指揮を取り
幕府側の死者が1000人、負傷者が1万人というのは、単なる一揆鎮圧ではなく、戦いそものですね。
あるドラマで、松平信綱が
一揆側の心情的に同情しながら、『それでもしなければいけない。苦しい心情』を漏らすものがありました。
その証拠と言えるのが、松倉勝家、寺沢堅高に対する厳しい処分です。
通常、幕府がここまで、厳しい処分をするのは、異例中の異例です。
もし、松平信綱が、キリスト教を理解していたとしたら、一揆勢が死んで、天国に行けることが彼らにとっての幸福と考えたのは、考えすぎでしょうか。。(キリシタンは、自害を禁じられていたので)
住民が入れ替わってしまったことや、離島の多い天草では隠れキリシタンを探すのが困難であったことなども大きかったと思われます。
と同時に、一揆勢をそれこそ根絶やしにしたことは、かつての信長がそうであったように反逆を封じるための「当然の手段」だったかもしれないですね。
賢者は歴史に学びます。