幕府ははじめ板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣(はけん)しましたがうまくいかず、板倉は翌1638年の元日に総攻撃をかけた後に討死(うちじに)しました。幕府は老中(ろうじゅう)の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲みました。
信綱はオランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃(ほうげき)しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まってすぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援(きゅうえん)が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
先の総攻撃で板倉など4,000人以上の死傷者(ししょうしゃ)を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻(ひょうろうぜ)めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬(だんやく)が尽きた一揆勢は苦しくなりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今でこそ、球界では助っ人外国人の存在は欠かせない存在ですが(^_^;)
ポルトガルはどうして、加勢してくれなかったのでしょうか・・
やはり外国は100%信用してはいけないと言う事実をこの戦いでは教訓としているのでしょうか。
応援凸
カトリックの思惑
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この『島原の乱』は、最初から、突発的に何の勝算もなく、起きたのではなく、
カトリックからの救援をあてにしていたのですね。
では、歴史のifとして、ポルトガル、スペインが
この一揆軍にたいして、救援軍を出兵したとしたら、歴史は、どう変わっていたでしょうか。
それにしても
なぜか、ポルトガル、スペインも秀吉の時代から
日本への出兵にたいしては、非常に消極的です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ポルトガルに関する詳しい経緯は不明ですが、考えられるとすれば当時のポルトガルはイスパニア(スペイン)スペインからの独立前夜で海外にまで目を向けられなかったことと、そのイスパニアもアルマダの海戦での敗北以後に勢力が衰えていたことが考えられます。
世界史を含めた流れで考えれば、当時の我が国をめぐる情勢も分かりやすいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 ポルトガルが仮に援軍を出していれば、それこそ国家の命運をかけた戦争になったでしょう。
しかしながら、この頃にはイスパニアもポルトガルの勢力が衰えていました。我が国においてはオランダの一人勝ちだったのです。
このあたりについてはまた詳しく紹介します。
今でこそ、球界では助っ人外国人の存在は欠かせない存在ですが(^_^;)
ポルトガルはどうして、加勢してくれなかったのでしょうか・・
やはり外国は100%信用してはいけないと言う事実をこの戦いでは教訓としているのでしょうか。
応援凸
こんばんは
青田です。
この『島原の乱』は、最初から、突発的に何の勝算もなく、起きたのではなく、
カトリックからの救援をあてにしていたのですね。
では、歴史のifとして、ポルトガル、スペインが
この一揆軍にたいして、救援軍を出兵したとしたら、歴史は、どう変わっていたでしょうか。
それにしても
なぜか、ポルトガル、スペインも秀吉の時代から
日本への出兵にたいしては、非常に消極的です。
世界史を含めた流れで考えれば、当時の我が国をめぐる情勢も分かりやすいですね。
しかしながら、この頃にはイスパニアもポルトガルの勢力が衰えていました。我が国においてはオランダの一人勝ちだったのです。
このあたりについてはまた詳しく紹介します。