しかし、有馬氏が日向国延岡(ひゅうがのくにのべおか、現在の宮崎県延岡市付近)に領地替えとなり、幕府直轄(ちょっかつ)の天領(てんりょう)を経(へ)て松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。
藩主の松倉勝家(まつくらかついえ)は幕府に認められたいという意思もあったのか、キリシタンへの厳しい弾圧(だんあつ)を開始し、同時に農民への過酷(かこく)な年貢の取り立てを行いました。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳(うんぜんだけ)の火口(かこう)に放り込まれたり、年貢を納められない農民が蓑(みの)でしばりあげられ、生きたまま火を付けられるという「蓑踊(みのおど)り」と呼ばれた拷問(ごうもん)を加えられたりしました。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に唐津藩(からつはん)が領有していた肥後国天草(ひごのくにあまくさ、現在の天草諸島=あまくさしょとう)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは日々追いつめられていきました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
島原の乱への経緯ですね。
それにしても、厳しい年貢の取立て
や、火山の火口へ放り込んだり、火を付けたりと随分と酷い仕打ちをしたものですね。
そんな余りにも非人道的な仕打ちに、
いくら改宗をさせる為とはいえ、恨みをかうのは当然の事だったようですね。
応援凸
つらい話です。
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この『島原の乱』に関しては、つらい気持ちになります。
というのも、
寺沢堅高、松倉勝家は、キリシタンの弾圧が本当に目的ではなく、年貢の厳しい取り立てをするために
キリシタンが多いことにこじつけて、厳しい圧政をしたからです。
反カトリックのオランダ商館長も辟易するほどの
拷問だったそうです。
私の記憶が正しければ、幕府にたいして、実質石高よりも、高い石高を幕府に申請したと聞いたことがあります。
これなら、『島原の乱』が起こるのは、当たり前だと思います。
それなのに、幕府は、この『島原の戦い』にたいして、断固とした態度に望みました。
一揆軍の37000人は、全滅です。
ただ、島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、
後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみであり、
同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。
その後、天領になった領主は、石高の修正を訴えて、切腹し、乱から、30年経って、それが認められました。
この乱に参加した37000人の死は、願いが報われたのかもしれませんね。
幼児性
ろっぽん なんか面倒だから、国交を閉ざすという行為は
泣きべそかいて、部屋にカギをかける
少年や少女みたいでいくら植民地のおそれがあるといっても幼い政治姿勢だね。
今度の福島原発問題で1万5千トンもの放射能汚染水の海洋投棄だって考えが似ていますね
不平等条約が日露戦争で解決したので外交は力づくという姿勢と言う単純なナショナリズムが横行している。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 松倉氏はキリシタンを根絶やしにすることで幕府に認めてもらおうとしたのと、キリシタンの弾圧を年貢取立ての隠れ蓑にしようと考えたと思われますね。
仰るとおり、我が国では考えられないような過酷な仕打ちがやがて大きな事件を生み、そのツケは松倉氏もキッチリと払わされることになります。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、つらい話ですね。
これから詳しく内容を紹介することになりますので、よろしくお願いします。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大人の外交とは言い難い一面がありますね。
同じ鎖国をするにしてももっとやり方があったでしょうし、開国への転換ももっとうまくできたはず。
島国であるがゆえに、外交は得意でないのかもしれません。
通りすがり 拷問というか、もはや処刑の域ですなあ……。
通りすがりさんへ
黒田裕樹 > 拷問というか、もはや処刑の域ですなあ……。
そのとおりですね。完全に常識を逸脱しています。この後の展開が読めてしまいますね。
島原の乱への経緯ですね。
それにしても、厳しい年貢の取立て
や、火山の火口へ放り込んだり、火を付けたりと随分と酷い仕打ちをしたものですね。
そんな余りにも非人道的な仕打ちに、
いくら改宗をさせる為とはいえ、恨みをかうのは当然の事だったようですね。
応援凸
こんにちは
青田です。
この『島原の乱』に関しては、つらい気持ちになります。
というのも、
寺沢堅高、松倉勝家は、キリシタンの弾圧が本当に目的ではなく、年貢の厳しい取り立てをするために
キリシタンが多いことにこじつけて、厳しい圧政をしたからです。
反カトリックのオランダ商館長も辟易するほどの
拷問だったそうです。
私の記憶が正しければ、幕府にたいして、実質石高よりも、高い石高を幕府に申請したと聞いたことがあります。
これなら、『島原の乱』が起こるのは、当たり前だと思います。
それなのに、幕府は、この『島原の戦い』にたいして、断固とした態度に望みました。
一揆軍の37000人は、全滅です。
ただ、島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、
後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみであり、
同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。
その後、天領になった領主は、石高の修正を訴えて、切腹し、乱から、30年経って、それが認められました。
この乱に参加した37000人の死は、願いが報われたのかもしれませんね。
泣きべそかいて、部屋にカギをかける
少年や少女みたいでいくら植民地のおそれがあるといっても幼い政治姿勢だね。
今度の福島原発問題で1万5千トンもの放射能汚染水の海洋投棄だって考えが似ていますね
不平等条約が日露戦争で解決したので外交は力づくという姿勢と言う単純なナショナリズムが横行している。
仰るとおり、我が国では考えられないような過酷な仕打ちがやがて大きな事件を生み、そのツケは松倉氏もキッチリと払わされることになります。
これから詳しく内容を紹介することになりますので、よろしくお願いします。
同じ鎖国をするにしてももっとやり方があったでしょうし、開国への転換ももっとうまくできたはず。
島国であるがゆえに、外交は得意でないのかもしれません。
そのとおりですね。完全に常識を逸脱しています。この後の展開が読めてしまいますね。