当時の貿易の主な輸入品は中国産の生糸(きいと、別名を白糸=しらいと)でしたが、マカオを拠点(きょてん)とするポルトガル商人が生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、1604年に糸割符制度(いとわっぷせいど)を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人(ごかしょしょうにん)に一括(いっかつ)して購入させることで生糸の価格を抑制(よくせい)しました。
ちなみに輸出品は、石見銀山(いわみぎんざん)や生野銀山(いくのぎんざん)などから当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心であり、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には山田長政(やまだながまさ)のようにアユタヤ朝(アユタヤちょう、現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(リゴール)の太守(たいしゅ、別名を長官)にまで出世した者も現れました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
そうですか!
やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか!
> やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
> リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
> 日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
山田長政のような人物が現れるところが日本人の良いところですね。
知恵を絞って、国益のみならず世界に貢献できる我が国であってほしいと思います。
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鎖国以降の日本人町。
晴雨堂ミカエル 新井白石の「西洋紀聞」で有名なイタリア人宣教師シドッティは、18世紀初頭にフィリピンの日本人町で和服と日本刀大小を得て、月代を剃って侍に変装し日本に上陸しました。
いわゆる鎖国体制成立から60年以上が経っている訳ですが、当時はまだ日本の文化や生活様式を守っている「日本人町」が残っていた事になります。
ウイリアム・アダムスの件と同じですが、日本人町が消滅するのはいつごろでしょうか。また、日本人町の末裔についての研究はどのくらい現地では進んでいますか? フィリピンではハポンと呼ばれている人々もいると聞いていますが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 タイの場合、日本人町は山田長政が殺された後に規模が大幅に縮小しました。その後も細々と続いたようですが、やがてタイ人と同化してしまって消えたようですね。
そうですか!
やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
応援凸
> やはり日本人は外国へ移住してもそこでしっかりと
> リーダーシップを発揮出来る優秀な国民なんですね^^
> 日本は資源は乏しい国ですが、その分、知恵を働かせて生き残っていくしか道は無さそうですかね。
山田長政のような人物が現れるところが日本人の良いところですね。
知恵を絞って、国益のみならず世界に貢献できる我が国であってほしいと思います。
いわゆる鎖国体制成立から60年以上が経っている訳ですが、当時はまだ日本の文化や生活様式を守っている「日本人町」が残っていた事になります。
ウイリアム・アダムスの件と同じですが、日本人町が消滅するのはいつごろでしょうか。また、日本人町の末裔についての研究はどのくらい現地では進んでいますか? フィリピンではハポンと呼ばれている人々もいると聞いていますが。