さて、この当時は以前に紹介したように、朝廷が屯倉(みやけ)、豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地や、同じく朝廷が田部(たべ)や名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族が部曲(かきべ)と呼ばれる人民を所有していました。
これらの制度がうまく機能していた時代はまだ良かったのですが、聖徳太子が摂政になった頃には、蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。
このまま放っておけば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることで両者に争いが起こって、罪もない人民が迷惑するばかりでなく、国内の動乱が隋(ずい)などの諸外国の介入を招いて、亡国の危機にもなりかねないという、非常に困った事態になるおそれがありました。
聖徳太子は、これらの政治情勢の不安を打開するには、朝廷がすべての土地や人民を所有するという、いわゆる「公地公民制」(こうちこうみんせい)を目指すという思い切った改革しかない、と考えていました。



いつも有難うございます。
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tycoont はじめまして!タイクーンと申します。
毎回ブログ拝見させていただいております。
勢力を増長させる蘇我氏と蘇我氏の血を引きながら
推古天皇を輔弼する立場に立っていた聖徳太子は両者のパワーバランスを保つのに大変だったしょうね!
また、次回も楽しみ読ませていただきます。
あと、私のブログにリンク貼らせてもらっても
い~ですか?
さすらい こんにちは。
試行錯誤の時ですね。
もし聖徳太子が不在ということになれば
これも誰か別な者の政策なんでしょうが
続きのお話を楽しみにしています。
応援♪
tycoontさんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
仰るとおり、朝廷と蘇我氏とのパワーバランスを保つのは至難の業でした。
このバランスを崩すことなく、さらに蘇我氏の力を削ぐという離れ業をやってのけたのが聖徳太子でした。
聖徳太子の内政といえば有名なのがいくつかありますが、それらが行われた経緯にも注目していきたいと思います。
リンクの件、有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします\(^o^)/
さすらいさんへ
黒田裕樹 そう、試練の日々です(^^ゞ
聖徳太子でなかったら、バランスを保ちながら改革ができたでしょうか?
「もしも」の世界を想定しながら歴史を学ぶのも、醍醐味のひとつですね。
応援有難うございます(^o^)/
やり手やね~
オバrev 聖徳太子は公地公民も目指していたんですか。
17条憲法や、冠位十二階や、遣隋使など、
ものすごい改革ですよね。
抵抗勢力である蘇我氏の反発はかなりあったんじゃないでしょうか?
相当なやり手ですね オオーw(*゚o゚*)wスゲー
ヒロキ なるほど!公地公民はこの頃から考えられてたのですね!!
そして乙巳の変で蘇我氏を殺害して、改新の詔で公地公民に踏み切ったわけですね。
しかし聖徳太子の力では馬子の力を抑えることはできなかったのですね(>_<)
ぴーち こんばんは!
いつの世でも、内政干渉というのは
ついて回るものなんでしょうかね・・。
今でも、日本が靖国参拝すれば、
東アジア諸国は、蜂の巣つついた騒ぎ
ですものね。。
話は変わりますが、
聖徳太子の頃は
今の日本の人口よりもはるかに少なかったでしょうから、
そういう意味ではまだまだ政治がし易く、まとまりは良かったと思うんですが、これはあくまで私の推測ですが、いかがなものでしょうか・・。
それでは応援です凸
ミュウタント 歴史的に見ても、聖徳太子の実在は疑わしいという見方が大勢を占めてきています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子が行おうとした改革は蘇我氏にとっては大問題でしたから、そのまま実行しては反発が必至でした。
したがって、究極の理想である「公地公民制」は胸に秘め、いわゆる「からめ手」から、少しずつ蘇我氏の権力を奪っていく作戦を取ったのです。
その作戦とは…具体的にはこの講座で紹介していきますね(^^♪
聖徳太子がいかに「相当なやり手」だったかがご理解いただけるものと思っております。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 公地公民制が実現したのは大化の改新のときですが、いきなり実現できた訳ではなく、その過程に至るまでに様々なステップがありました。
聖徳太子が摂政になった頃の蘇我氏の権力は強大でしたので、その段階で蘇我氏を抑えるのは不可能でした。そこで、ステップを踏んで段階的に蘇我氏の力を弱める作戦に切り替えたのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 内政干渉が起きるのは、いきなりの一方的で理不尽な要求もありますが、干渉される側に「付け入るスキ」がある場合がほとんどです(ぴーちさんが仰られた現代での干渉もそれが原因です)。
当時はただでさえ超大国である隋の誕生で東アジアに緊張が走っていた時期です。そんな時期に内乱を起こしているようでは、諸外国のエジキになるのは必至です。だからこそ聖徳太子は平和裏に蘇我氏の権力を時間をかけて奪おうと作戦を練ったのです。
ぴーちさん、鋭いですね(^^ゞ
現在の政治が、人口が多いゆえにまとまりに欠け、結果がなかなか出せない有様を見ていると、聖徳太子の内政や外交が成果をあげたのも、人口が少ない分、まとまりやすかったからではないかと確かに考えられます。
ミュウタントさんへ
黒田裕樹 当ブログへのご訪問、有難うございます。
> 歴史的に見ても、聖徳太子の実在は疑わしいという見方が大勢を占めてきています。
恐れ入りますが、そのように思われます貴方のお考えを是非とも拝聴いたしたく思います。貴方がそこまで断言されるのは、おそらくは確かな根拠があってのことと考えられますので、私としても勉強させていただく良い機会となります。
別の機会にでもお知らせ下されば幸いです。
毎回ブログ拝見させていただいております。
勢力を増長させる蘇我氏と蘇我氏の血を引きながら
推古天皇を輔弼する立場に立っていた聖徳太子は両者のパワーバランスを保つのに大変だったしょうね!
また、次回も楽しみ読ませていただきます。
あと、私のブログにリンク貼らせてもらっても
い~ですか?
試行錯誤の時ですね。
もし聖徳太子が不在ということになれば
これも誰か別な者の政策なんでしょうが
続きのお話を楽しみにしています。
応援♪
仰るとおり、朝廷と蘇我氏とのパワーバランスを保つのは至難の業でした。
このバランスを崩すことなく、さらに蘇我氏の力を削ぐという離れ業をやってのけたのが聖徳太子でした。
聖徳太子の内政といえば有名なのがいくつかありますが、それらが行われた経緯にも注目していきたいと思います。
リンクの件、有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします\(^o^)/
聖徳太子でなかったら、バランスを保ちながら改革ができたでしょうか?
「もしも」の世界を想定しながら歴史を学ぶのも、醍醐味のひとつですね。
応援有難うございます(^o^)/
17条憲法や、冠位十二階や、遣隋使など、
ものすごい改革ですよね。
抵抗勢力である蘇我氏の反発はかなりあったんじゃないでしょうか?
相当なやり手ですね オオーw(*゚o゚*)wスゲー
そして乙巳の変で蘇我氏を殺害して、改新の詔で公地公民に踏み切ったわけですね。
しかし聖徳太子の力では馬子の力を抑えることはできなかったのですね(>_<)
いつの世でも、内政干渉というのは
ついて回るものなんでしょうかね・・。
今でも、日本が靖国参拝すれば、
東アジア諸国は、蜂の巣つついた騒ぎ
ですものね。。
話は変わりますが、
聖徳太子の頃は
今の日本の人口よりもはるかに少なかったでしょうから、
そういう意味ではまだまだ政治がし易く、まとまりは良かったと思うんですが、これはあくまで私の推測ですが、いかがなものでしょうか・・。
それでは応援です凸
したがって、究極の理想である「公地公民制」は胸に秘め、いわゆる「からめ手」から、少しずつ蘇我氏の権力を奪っていく作戦を取ったのです。
その作戦とは…具体的にはこの講座で紹介していきますね(^^♪
聖徳太子がいかに「相当なやり手」だったかがご理解いただけるものと思っております。
聖徳太子が摂政になった頃の蘇我氏の権力は強大でしたので、その段階で蘇我氏を抑えるのは不可能でした。そこで、ステップを踏んで段階的に蘇我氏の力を弱める作戦に切り替えたのです。
当時はただでさえ超大国である隋の誕生で東アジアに緊張が走っていた時期です。そんな時期に内乱を起こしているようでは、諸外国のエジキになるのは必至です。だからこそ聖徳太子は平和裏に蘇我氏の権力を時間をかけて奪おうと作戦を練ったのです。
ぴーちさん、鋭いですね(^^ゞ
現在の政治が、人口が多いゆえにまとまりに欠け、結果がなかなか出せない有様を見ていると、聖徳太子の内政や外交が成果をあげたのも、人口が少ない分、まとまりやすかったからではないかと確かに考えられます。
> 歴史的に見ても、聖徳太子の実在は疑わしいという見方が大勢を占めてきています。
恐れ入りますが、そのように思われます貴方のお考えを是非とも拝聴いたしたく思います。貴方がそこまで断言されるのは、おそらくは確かな根拠があってのことと考えられますので、私としても勉強させていただく良い機会となります。
別の機会にでもお知らせ下されば幸いです。