一般的な歴史教科書の記述に見られる江戸時代の農民の暮らしぶりは上記のとおりですが、これらは本当のことでしょうか。この謎(なぞ)を探るためにも、まずは当時の人口の比率(ひりつ)や米に関する実情から考えてみましょう。
江戸時代の人口のうち、農民は実に8割以上を占(し)めていました。残り2割未満が武士や町人(ちょうにん)などです。教科書に書いてあるように、もし五公五民で農民の収穫(しゅうかく)のうち半分の5割が農民の口に入らなかったとすると、2割に満たない武士や町人が5割の米を食べていたことになります。
武士や町人、あるいは農民という身分の違いがあっても、人間の胃袋の大きさに違いがあるはずがないのですから、上記の理屈(りくつ)はどう考えても有り得ないのです。だとすれば残りの米はどこへ消えたのでしょうか。ちなみにこの頃の我が国は後述するように鎖国(さこく)と呼ばれる状況でしたから、米の輸出も考えられません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
我が家の先祖はその2割の中の武士でした(^_^;)
農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 我が家の先祖はその2割の中の武士でした(^_^;)
> 農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
なるほど、確かにそういう立場になりますね。
私は父方が農家で、母方は武士の出身の方がおられるそうです。
> けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
> 農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
仰るとおり、体力が必要な農民の皆さんの方がお米を必要とされるのが普通ですよね。
隠し持っていた…なるほど(^^ゞ
次回の更新をお楽しみに(^^♪
農民の暮らし
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
農民は、過酷なイメージがあったのですが
不思議な事実があります。
◆ 熊本藩の細川家は、農民に相当、気を遣っていたと聞いたことがあります。
というのも、商人からの借金を踏み倒しても
一揆にならないが、
農民を怒らしたら、一揆になると。。。
◆ 享保の改革まで、天領で、一揆らしい一揆が
なかったと以前、徳川吉宗のところで、聞きました。
その時、意外だったのは、私は、一揆というのは
日常茶飯事のイメージを持っていました。
◆ 仙台藩は、江戸に米を出荷させ、江戸の米の
4分の1は、仙台米と言われるまでになった。
農民の暮らしが、そんなに悲惨なら、そこまで
出来るはずはないはず。
◆ 武士の給与は、石高によって、決まっていた。
ということは、米の生産量が増えても、収入は同じはず、しかし、農民は、米の生産量が増えれば
たとえ、税率が高くても、貯蓄量はあったはずでは。。。
青田さんへ
黒田裕樹 さすが青田さん、良くご存知ですね。
私の今後の更新も、これらの流れに沿う形になると思いますよ(^^♪
引き続きご覧下さいm(_ _)m
隠しもって
ろっぽん 私が昨年描いた「極楽見物」という民話コミックにそのことを描いています。
URLがそうです。
おがのぶ こんにちは~
毎回 楽しみに拝見いたしております
(コメントは たまにするだけですが・・・)
この 農民の暮らしぶりは できるだけ詳しく
伝えて貰いたいと 思っております
1石は 人が1年で食べるコメの量ですね
当時の石高と人口を考えると
教科書通りだと 矛盾が出てくると ずっと感じていました
また 農民の生活でも 楽しみを感じる事がなければ
続けていく事などできないと思うのですが
どう お考えでしょうか?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回の更新については意外と知られていませんが、よく考えれば不思議に思うことですね。
おがのぶさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
農民の生活は実はかなり豊かだったようです。
10日の更新でそのからくりを明らかにしたいと思いますので、どうぞご期待ください。
いやはや・・・
大国 発想が短絡的すぎませんか?
小学生の足し算引き算のレベルでしょうか。
現代においても、完全な”冨の再分配”など不可能なのに、
江戸時代にそれが行われていたとでも?
計算上の余剰米が仮にあったとして、
「幕府・藩が農民に還元した」という史実がどこかで見つかったのでしょうか?私は知りませんが。
当時、最も人口が多く、栄えていた江戸の町ですら、
現代で言う「スラム街」だったようです。
これは、発掘調査での人骨に現れています。
江戸期の人々は、日本史上最も栄養失調であり、病死者が多かった事が指摘されています。
計算上の余剰米は、おそらく、腐るか、破棄された可能性が高いでしょう。
大国さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
富の再分配については、仰るように完璧には行なわれなかったでしょう。
史料については、そこまで詳しく書いているのは確かに存在しないかもしれません。
骨については、確かにスラム街では存在していたことでしょう。
ただし、史料や骨ばかりで当時の社会を推し量ることは、現代の価値観を中心に考察することによって歴史の大きな流れを見失うことにつながりかねません。
当時の米は「金貨」と同じです。
幕府や商人は細心の注意を払って米蔵に備蓄米を保管していました。
無論、それでも水害や火災で失うことはありましたが、現代のような飽食の現代とは異なり、わざと腐らせたり破棄するということは、貴重な財産を自ら放棄することであり、史料の存在以前にできるはずありません。
また、拙ブログでもこの後の更新で紹介していますが、当時の農民は私たちの想像以上に裕福でした。なぜなら、検地が260年間ほとんど行われず、農民が自分で開墾した「隠し田」や、商品作物で得た利益を自分のものにしていたからです。地方が豊かで生活能力があったからこそ、国民の多くが読み書き算盤といった基本的な能力を身につけていたことで、幕末の混乱や明治維新の動乱を乗り切るとともに、中央集権体制のもと国家全体で列強の侵略に立ち向かい、やがては我が国が世界の一等国にのし上がるという歴史を残しました。
もちろん、それらは収穫がキチンとできればの話です。
飢饉で生産量が落ちれば当然のように食べられなくなりますし、また必要以上に年貢を要求されれば自分たちの生活が苦しくなりますから、飢饉や幕末の動乱期を中心に一揆が頻発したのは無理もありませんでした。
江戸時代の人骨については私も存じています。
当時の江戸は、今の23区よりもはるかに小さいエリアに100万人の人口がひしめき合っていました。
その中には、決して裕福でなかった人々も存在していると考えるのは、裕福な現代ですら都会において厳しい環境で生活する人々が後を絶たない事実を見れば当然でしょう。
ということは、人骨だけで「江戸時代のすべての人々が栄養失調だった」と考えるのも無理があります。
大国さんがそうであるとは決して申しませんが、過去の私がそうであったように、現代の私たちは「江戸時代の人々は大きな権力に虐げられていた」とする「貧農史観」という名のプロパガンダに陥っている傾向が見られます。しかし、当時の真の歴史を自己の考えによる「結論ありき」から論じるのは無理がありすぎます。
また、史料で最も伝わりにくいことは「当然のように行われていたこと」や「暗黙の了解で行われていたこと」です。前者は当たり前すぎて、後者は書くのがはばかられて史料として伝わりにくいところがあります。
加えて、史料にはどうしても個人の感情が入ったりしますから、そのあたりを割り引いて見なければいけません。
本当の歴史研究は、残された史料の行間を読んで、理解できない部分があれば、当時の社会情勢と現代につながる歴史の流れに当てはめて真実を見つけ出すことが重要であり、また面白く学べるところです。
最後に、それらは無論「短絡的な発想」や「小学生の足し算引き算のレベル」で可能なほど甘くはないものであることを申し添えます。
黒田さんへ
大国 素早い返答、有難うございます。
「富の再分配」の件、完璧も何も、当時にはそのような概念はなかったでしょう。
いじわるな引っ掛け問題でしたね、失礼しました。
>「幕府や商人は細心の注意を払って米蔵に備蓄米を保管していました。」
ええ、これは当然でしょう。武士や商人が”飢えた”という話は聞いたことがありませんから。
備蓄米という性格上、水害や火災で失ったり、中には腐るモノもあったはずです。
ならば、「2割に満たない武士や町人が5割の米を食べていた」ことも、実際には有り得ますよね。
算数の知識では難しいかもしれませんが。
「人骨」については、リンクを貼っておきます。
http://www.asahi.com/national/update/1217/TKY201112170155.html
曲がりなりにも「国立科学博物館」が大量に保管している史料であり、
歴史的な価値は非常に高いと思いますが、いかがでしょう?
それでも、たかが「骨くらい」なのでしょうか?
確かに、紙で書かれた史料の中には、信憑性に乏しいものもあります。
例えば、「家系図」など、いくらでも改ざんできますよね?
誰が書いたか、というのもポイントで、十分に検証する必要があるでしょう。
ですが、人骨の検証に、なぜ「現代の価値観」が引き合いに出されるのか。
むしろ、貴方がたが、「歴史の大きな流れ」を都合良く作ろうとしているのではないですか?
確かに、農民・商人の中には富裕層があったに違いありません。
ですが、それを「基準」にして、”庶民は裕福だった”というのは、強弁でしょう。
例に挙げると、江戸時代前半の南部藩(遠野)の様子。
http://www.tonotv.com/members/fukudokuhon/rekishi05_2.htm
これを見る限り、「想像以上に裕福」ではなく、「想像以上に悲惨」と感じるのは
私だけでしょうか?
>「読み書き算盤が国民の多くが身に付けていた」
さすがに、これは二重の意味で”ない”でしょう。
農作業で手一杯の農民が、生活に必要がない”読み書き算盤”などする理由がないうえ、
江戸期には、”まだ日本語自体が完成されていなかった”という事実。
上杉鷹山の興譲館でも、その対象は武士のみです。
岡山の閑谷学校は、”庶民(おそらく富農)でも通えた”に過ぎません。
つまり、”国民の多く”というのは間違いで、”武士と庶民の富裕層”というべきでしょう。
国民全体から見れば、せいぜい3割程度が現実的だと考えます。
明治維新については、話がそれるので省略します。
江戸期は、幕府だけでなく、地方各藩の財政状態も「慢性赤字」でした。
もし仮に、黒田さんの言われるとおり、「庶民が裕福」であったとします。
では、幕府や藩の役人達は、なぜ庶民から「余剰分」を徴収しなかったのでしょうか?
自分達の懐は火の車なのに、のうのうと暮らしている庶民を指をくわえて眺めているだけ・・・
それほど役人達は無能だったのでしょうか?私はそうは思いません。
徴収するほど「余剰」がなかったのだ、と考える方が極めて自然でしょう。
私は、「貧農史観」など意識した事もありませんし、史料に基づいた考察をしています。
結論ありきなど・・・とんでもない言い掛かりですね~
わざわざ「敵対勢力」を作り出して自論を有利にしようとしていませんか?
それこそが”プロパガンダ”と呼ばれるものですよ?
私は、当時の人口と石高を比較して云々・・・など、机上の算数の問題みたいな議論が
苦手なだけです。
「江戸期の庶民の暮らしは貧しかったが、一部には富裕層もいた。」が私の結論です。
国民主権や民主主義という概念が無かった封建時代、”国民の生活が第一”みたいな
社会正義は存在しなかったと思うのですが、いかがでしょう?
大国さんへ その2
黒田裕樹 歴史の真実の探求には様々な考えがありますからね。
私の考えをもう少し補足するとすれば、江戸時代は基本的に各大名の独立採算制でしたが、領内で一揆が起きれば取り潰しの対象になったため、農民に対して武士が強く出られないという背景もありました(いわゆる「貧農史観」の真逆ですね)。
一方、天領では取り潰しはなかったものの、天領で一揆が起きるのは恥であるということで農民の生活は比較的安定していましたが、租税の負担が増えたことで享保の改革の末期から一揆が頻発するようになっています。
もちろんそこに「国民の生活が第一」というマニフェスト破りの某政党のような概念はなかったと思われますが、大名や幕府の体裁を理由に結果としては似たようなものである、というのが私の見解であり、それを裏付ける意味で人口と石高の比較といった数学の概念を出しております。
とはいえ、大国さんのお考えも一理ありますし、私のブログを訂正までは至らずとも、ご見解に表立って反論するつもりはございません。
仮に大国さんがご自身のブログをお持ちであれば、そちらにご見解を掲載される価値は十二分にあると愚考します。
大国さんのご見解は歴史教育の探求のうえでも参考になると思われますので、一介の教師として今後の実際の授業のうえで活用させていただくこともあるかもしれません。
言葉の面で出過ぎた振舞いがあればお詫びいたします。どうも有難うございました。
江戸時代の農民の暮らし
青田です。 黒田先生、大国さん
おはようございます。
青田です。
江戸時代の農民の暮らしですが、これは
黒田先生のおっしゃる『独立採算制』というのが
キーワードだと思います。
というのも、統治にいたる経緯がその後の藩政に影響するからです。
<天領>
戦国時代、関東を統治していた北条氏は、善政を敷いていて、戦国時代で、もっとも少ない、年貢の徴収率(四公六民)にしていました。
その後、関東に移封になった徳川家康は、
円滑な統治をするために少ない、年貢の徴収率を踏襲しました。
というのも、領国経営に専念する上で、一揆などあれば、豊臣秀吉に対抗する力がなくなるからです。(事実、豊臣秀吉は、徳川家康の力を削ごうと思っていました。)
当然、江戸時代は、先例主義ですから、最初に少ない年貢の徴収率にすると、急に増税できません。
<肥後細川家>
肥後細川家は、商人から、借金をしまくるのに
農民には、寛容でした。その結果、庄屋クラスでも公共事業をする経済力があったそうです。
その理由として
① 肥後は、戦国時代に大きな一揆があったこと。(佐々成政は、統治に失敗して、切腹した。)
② その後、統治した加藤清正は、善政を敷いて
常に農民から、『あの時は、良かった。』と思われていたこと。
その加藤家も「取り潰し」になっているので、
お家の「取り潰し」は、他人事ではなかった。
③ 島原の乱が起こり、藩が「取り潰し」になったのを観ていたこと。
細川家の立場からすると
一揆による藩の取り潰しは、常に潜在的な恐怖としてあった気があります。
結論としては、『農民の暮らしは、各藩の藩政』の経緯が影響している気がします。
いわゆる「地方格差」ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 貴重なご意見を有難うございます。
仰るとおり、独立採算制であったがゆえに全国各地で様々な格差がありますね。
ブログでの表現が「すべての農民」という解釈につながらないようにする必要があるかもしれません。
黒田さんへ
大国 ご返答感謝します。
自身のブログは個人的な利用目的なので、ここで公開する事は出来ません。
私は、幼少から歴史が好きでした。最初は源平争乱の時代でしたが、
次第に、大日本帝国時代に至るまで興味を持つようになりました。
同じ趣味の友人の影響で”特攻隊”にも憧れ、軍歌を口ずさんでみたり、
ちょっと変わった”右翼少年”だったと思います。
今のようにPCの無い時代、学校の図書館が私達の求める場所でした。
しかし、小学生だった当時でも、歴史に綺麗事を求めたりしませんでした。
生々しい現実、人々のたくましい生き様を見て驚き、衝撃を受けながら、
あくまで冷静に判断しようとしていました。
「歴史に良いも悪いもない。ただ、現実がそこにあるだけ。」
これが幼少の頃からの私の歴史に対する認識です。
黒田さんのブログを拝見しましたが、非常に分かりやすく書かれており、
さすが社会の先生だけのことはあるな、と率直に感心しました。
ですが、ひとつ気になった点を言いますと、プロフィールにある
「分かりやすく”楽しい”歴史の実践」という部分です。
”歴史には現実しかない”という私の考えでは、「楽しい歴史」など存在
しないからです。
もし存在しないものを存在させようとすると、そこには人為的な作業が
必要になります。いわゆる捏造です。
「楽しい歴史」というのは、その段階で”結論ありき”でありませんか?
冒頭の「2000年を超える世界に誇るべき皇室」部分についても、
私には、過大なナショナリズム、プロパガンダに思えます。
日本人の祖先は大陸からの渡来人に間違いなく、天照など古代神話の
世界観は、キリスト教のそれとほぼ同じです。
(最近では、天皇家が登場する以前にヤマトやツガルといった民族がいた
という研究もあります)
私達が歴史を学ぶ(あるいは知ろうとする)目的は何でしょう?
黒田さんの言われる「先人に学ぶ」というのも目的の一つですね。
ですが、「正しい歴史を知ること」こそが私の一番の目的です。
「日本は伝統があり誇り高き国家だ」
「江戸時代は太平の世で、庶民も裕福に暮らしていた良い時代だった」
このように史実を作り上げて、”日本は美しい国家だ!”という必要が
どこにあるのですか?ナショナリズムを鼓舞する以外で。
歴史には、光の部分と影の部分が存在するのは当然です。
その影の部分まで”正当化”しようとすれば、無理が生じるのは必然です。
もし仮に、国威高揚のためだとしても、表面的な歴史をいじるよりも、
”人物”を取り挙げた方がよほどマシでしょう。
江戸期に限っても、上杉鷹山、山田方谷、岩井継之助など、民政家だけ
でも大勢います。
楽しいかどうかは別として、年表やあらすじだけに終始せず、こういった
”偉人”にスポットライトを当てるのが、本来の歴史教育では?と思います。
青田さんへ
大国 青田さん、ご返答ありがとうございます。
ええ。戦国時代の善政の例は、他に、
武田信玄、仁科盛信、明智光秀、石田三成など、たくさんありますね。
各藩で格差があったことも確かでしょう。
飢饉の多かった東北と西日本では、当然事情は違いますね。
”取り潰し”の恐怖ですが、確かにその可能性は否定できませんが、
原因の多くは、「後嗣断絶」といったお家騒動ですね。
まぁ、幕府による言いがかりの類もあったようですが。
「島原の乱」、「由比小雪の乱」などは性格が異なるので、例外では?
江戸時代、確かに前例主義でしたが、「年貢率を変更してはならない」
という法度がありましたか?
もしそうなら、先に書いたように、幕府や大名は、「裕福な農民を片目に
見ながらほぞを噛んでいた」ということになりますね(豊作の場合)。
逆に飢饉の場合は、”血も涙もない苛酷な取立て”になりますね。
話を戻しますが、「地方格差」は当然あるでしょう。
ここで問題視しているのは、その部分ではなく、「全体」です。
”総石高がいくらで、人口がいくらだから、庶民が飢えるのはおかしい”
こういう机上の計算が現実であったかどうか、という点です。
例えば、現在の日本に言い換えると分かりやすいですね。
「国民資産が1400兆円あり、人口は1億28百万人なので・・・
一人当たり1000万超の資産を持っている」という計算になります。
後世の人が、「当時の日本人はみんな相当金持ちだったんだな~」
と言っているのと同じ理屈です。
冨は公平分配されるのが”理想”です。
しかし、残念ながら、人類史上古今東西、そのような例はありません。
大国さんへ その3
黒田裕樹 私が歴史教育において「楽しく学ぶ」ことを標榜する意思は、現在行われている「自虐史観」への対抗にあります。
「日本がすべて悪い」とする自虐史観において我が国の未来ある子供たちが洗脳され、日本史嫌いから日本嫌いになり、将来への自信をなくしつつある現状を憂えるとともに、自分の力でこのような情勢を打破できないかと行動に至ったのが私が教師になるきっかけのひとつでした。
自虐史観を乗り越えるに際して、私が目指したのは「歴史は決してつまらなく、あるいは難しいものではない。日本という国の長い物語を楽しく学ぶことが大切だ」ということであり、拙ブログも「物語的」で「楽しい」歴史を紹介するということが大きな背骨になっています。
それがプロパガンダと仰るのであれば確かにそのとおりかもしれません。
我が国の精神は誇りある歴史から学ぶものであるという思いで、私は今後もブログを続けてまいりますが、大国さんのお考えも十分傾聴に値すると思います。
今後もそれぞれの立場で意思表明ができれば良いですね。
この度はご意見有難うございました。大国さんとの当該記事においての意見交換はこのあたりで一区切りとさせていただきたく存じます。
大国さん並びに青田さんへ
黒田裕樹 拙ブログへ建設的なご意見有難うございます。
他人様のブログにおいては管理人以外の活発な意見の交換が行われることがよくありますが、拙ブログの性格を考慮して、ここでは必要最小限に留めたいと思います。
以上は管理人としてのお願いですが、断じて言論弾圧の性格を持つものではありませんのでご理解ください。
我が家の先祖はその2割の中の武士でした(^_^;)
農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
応援凸
> 農家の方が丹誠込めて作ったお米を食べさせていただいていた訳ですね^^
なるほど、確かにそういう立場になりますね。
私は父方が農家で、母方は武士の出身の方がおられるそうです。
> けれど、仰るとおり、そう考えると確かに理屈に合いませんよね。ということは、農家が幕府にも見つからないように、おコメを隠し持っていたのでしょうか・・。
> 農業従事者の方の方が、武士、町人よりも重労働を強いられる分、ある程度たっぷりと食べていないと体は動かせないでしょうしね。。
仰るとおり、体力が必要な農民の皆さんの方がお米を必要とされるのが普通ですよね。
隠し持っていた…なるほど(^^ゞ
次回の更新をお楽しみに(^^♪
こんばんは
青田です。
農民は、過酷なイメージがあったのですが
不思議な事実があります。
◆ 熊本藩の細川家は、農民に相当、気を遣っていたと聞いたことがあります。
というのも、商人からの借金を踏み倒しても
一揆にならないが、
農民を怒らしたら、一揆になると。。。
◆ 享保の改革まで、天領で、一揆らしい一揆が
なかったと以前、徳川吉宗のところで、聞きました。
その時、意外だったのは、私は、一揆というのは
日常茶飯事のイメージを持っていました。
◆ 仙台藩は、江戸に米を出荷させ、江戸の米の
4分の1は、仙台米と言われるまでになった。
農民の暮らしが、そんなに悲惨なら、そこまで
出来るはずはないはず。
◆ 武士の給与は、石高によって、決まっていた。
ということは、米の生産量が増えても、収入は同じはず、しかし、農民は、米の生産量が増えれば
たとえ、税率が高くても、貯蓄量はあったはずでは。。。
私の今後の更新も、これらの流れに沿う形になると思いますよ(^^♪
引き続きご覧下さいm(_ _)m
URLがそうです。
毎回 楽しみに拝見いたしております
(コメントは たまにするだけですが・・・)
この 農民の暮らしぶりは できるだけ詳しく
伝えて貰いたいと 思っております
1石は 人が1年で食べるコメの量ですね
当時の石高と人口を考えると
教科書通りだと 矛盾が出てくると ずっと感じていました
また 農民の生活でも 楽しみを感じる事がなければ
続けていく事などできないと思うのですが
どう お考えでしょうか?
今回の更新については意外と知られていませんが、よく考えれば不思議に思うことですね。
農民の生活は実はかなり豊かだったようです。
10日の更新でそのからくりを明らかにしたいと思いますので、どうぞご期待ください。
小学生の足し算引き算のレベルでしょうか。
現代においても、完全な”冨の再分配”など不可能なのに、
江戸時代にそれが行われていたとでも?
計算上の余剰米が仮にあったとして、
「幕府・藩が農民に還元した」という史実がどこかで見つかったのでしょうか?私は知りませんが。
当時、最も人口が多く、栄えていた江戸の町ですら、
現代で言う「スラム街」だったようです。
これは、発掘調査での人骨に現れています。
江戸期の人々は、日本史上最も栄養失調であり、病死者が多かった事が指摘されています。
計算上の余剰米は、おそらく、腐るか、破棄された可能性が高いでしょう。
富の再分配については、仰るように完璧には行なわれなかったでしょう。
史料については、そこまで詳しく書いているのは確かに存在しないかもしれません。
骨については、確かにスラム街では存在していたことでしょう。
ただし、史料や骨ばかりで当時の社会を推し量ることは、現代の価値観を中心に考察することによって歴史の大きな流れを見失うことにつながりかねません。
当時の米は「金貨」と同じです。
幕府や商人は細心の注意を払って米蔵に備蓄米を保管していました。
無論、それでも水害や火災で失うことはありましたが、現代のような飽食の現代とは異なり、わざと腐らせたり破棄するということは、貴重な財産を自ら放棄することであり、史料の存在以前にできるはずありません。
また、拙ブログでもこの後の更新で紹介していますが、当時の農民は私たちの想像以上に裕福でした。なぜなら、検地が260年間ほとんど行われず、農民が自分で開墾した「隠し田」や、商品作物で得た利益を自分のものにしていたからです。地方が豊かで生活能力があったからこそ、国民の多くが読み書き算盤といった基本的な能力を身につけていたことで、幕末の混乱や明治維新の動乱を乗り切るとともに、中央集権体制のもと国家全体で列強の侵略に立ち向かい、やがては我が国が世界の一等国にのし上がるという歴史を残しました。
もちろん、それらは収穫がキチンとできればの話です。
飢饉で生産量が落ちれば当然のように食べられなくなりますし、また必要以上に年貢を要求されれば自分たちの生活が苦しくなりますから、飢饉や幕末の動乱期を中心に一揆が頻発したのは無理もありませんでした。
江戸時代の人骨については私も存じています。
当時の江戸は、今の23区よりもはるかに小さいエリアに100万人の人口がひしめき合っていました。
その中には、決して裕福でなかった人々も存在していると考えるのは、裕福な現代ですら都会において厳しい環境で生活する人々が後を絶たない事実を見れば当然でしょう。
ということは、人骨だけで「江戸時代のすべての人々が栄養失調だった」と考えるのも無理があります。
大国さんがそうであるとは決して申しませんが、過去の私がそうであったように、現代の私たちは「江戸時代の人々は大きな権力に虐げられていた」とする「貧農史観」という名のプロパガンダに陥っている傾向が見られます。しかし、当時の真の歴史を自己の考えによる「結論ありき」から論じるのは無理がありすぎます。
また、史料で最も伝わりにくいことは「当然のように行われていたこと」や「暗黙の了解で行われていたこと」です。前者は当たり前すぎて、後者は書くのがはばかられて史料として伝わりにくいところがあります。
加えて、史料にはどうしても個人の感情が入ったりしますから、そのあたりを割り引いて見なければいけません。
本当の歴史研究は、残された史料の行間を読んで、理解できない部分があれば、当時の社会情勢と現代につながる歴史の流れに当てはめて真実を見つけ出すことが重要であり、また面白く学べるところです。
最後に、それらは無論「短絡的な発想」や「小学生の足し算引き算のレベル」で可能なほど甘くはないものであることを申し添えます。
「富の再分配」の件、完璧も何も、当時にはそのような概念はなかったでしょう。
いじわるな引っ掛け問題でしたね、失礼しました。
>「幕府や商人は細心の注意を払って米蔵に備蓄米を保管していました。」
ええ、これは当然でしょう。武士や商人が”飢えた”という話は聞いたことがありませんから。
備蓄米という性格上、水害や火災で失ったり、中には腐るモノもあったはずです。
ならば、「2割に満たない武士や町人が5割の米を食べていた」ことも、実際には有り得ますよね。
算数の知識では難しいかもしれませんが。
「人骨」については、リンクを貼っておきます。
http://www.asahi.com/national/update/1217/TKY201112170155.html
曲がりなりにも「国立科学博物館」が大量に保管している史料であり、
歴史的な価値は非常に高いと思いますが、いかがでしょう?
それでも、たかが「骨くらい」なのでしょうか?
確かに、紙で書かれた史料の中には、信憑性に乏しいものもあります。
例えば、「家系図」など、いくらでも改ざんできますよね?
誰が書いたか、というのもポイントで、十分に検証する必要があるでしょう。
ですが、人骨の検証に、なぜ「現代の価値観」が引き合いに出されるのか。
むしろ、貴方がたが、「歴史の大きな流れ」を都合良く作ろうとしているのではないですか?
確かに、農民・商人の中には富裕層があったに違いありません。
ですが、それを「基準」にして、”庶民は裕福だった”というのは、強弁でしょう。
例に挙げると、江戸時代前半の南部藩(遠野)の様子。
http://www.tonotv.com/members/fukudokuhon/rekishi05_2.htm
これを見る限り、「想像以上に裕福」ではなく、「想像以上に悲惨」と感じるのは
私だけでしょうか?
>「読み書き算盤が国民の多くが身に付けていた」
さすがに、これは二重の意味で”ない”でしょう。
農作業で手一杯の農民が、生活に必要がない”読み書き算盤”などする理由がないうえ、
江戸期には、”まだ日本語自体が完成されていなかった”という事実。
上杉鷹山の興譲館でも、その対象は武士のみです。
岡山の閑谷学校は、”庶民(おそらく富農)でも通えた”に過ぎません。
つまり、”国民の多く”というのは間違いで、”武士と庶民の富裕層”というべきでしょう。
国民全体から見れば、せいぜい3割程度が現実的だと考えます。
明治維新については、話がそれるので省略します。
江戸期は、幕府だけでなく、地方各藩の財政状態も「慢性赤字」でした。
もし仮に、黒田さんの言われるとおり、「庶民が裕福」であったとします。
では、幕府や藩の役人達は、なぜ庶民から「余剰分」を徴収しなかったのでしょうか?
自分達の懐は火の車なのに、のうのうと暮らしている庶民を指をくわえて眺めているだけ・・・
それほど役人達は無能だったのでしょうか?私はそうは思いません。
徴収するほど「余剰」がなかったのだ、と考える方が極めて自然でしょう。
私は、「貧農史観」など意識した事もありませんし、史料に基づいた考察をしています。
結論ありきなど・・・とんでもない言い掛かりですね~
わざわざ「敵対勢力」を作り出して自論を有利にしようとしていませんか?
それこそが”プロパガンダ”と呼ばれるものですよ?
私は、当時の人口と石高を比較して云々・・・など、机上の算数の問題みたいな議論が
苦手なだけです。
「江戸期の庶民の暮らしは貧しかったが、一部には富裕層もいた。」が私の結論です。
国民主権や民主主義という概念が無かった封建時代、”国民の生活が第一”みたいな
社会正義は存在しなかったと思うのですが、いかがでしょう?
私の考えをもう少し補足するとすれば、江戸時代は基本的に各大名の独立採算制でしたが、領内で一揆が起きれば取り潰しの対象になったため、農民に対して武士が強く出られないという背景もありました(いわゆる「貧農史観」の真逆ですね)。
一方、天領では取り潰しはなかったものの、天領で一揆が起きるのは恥であるということで農民の生活は比較的安定していましたが、租税の負担が増えたことで享保の改革の末期から一揆が頻発するようになっています。
もちろんそこに「国民の生活が第一」というマニフェスト破りの某政党のような概念はなかったと思われますが、大名や幕府の体裁を理由に結果としては似たようなものである、というのが私の見解であり、それを裏付ける意味で人口と石高の比較といった数学の概念を出しております。
とはいえ、大国さんのお考えも一理ありますし、私のブログを訂正までは至らずとも、ご見解に表立って反論するつもりはございません。
仮に大国さんがご自身のブログをお持ちであれば、そちらにご見解を掲載される価値は十二分にあると愚考します。
大国さんのご見解は歴史教育の探求のうえでも参考になると思われますので、一介の教師として今後の実際の授業のうえで活用させていただくこともあるかもしれません。
言葉の面で出過ぎた振舞いがあればお詫びいたします。どうも有難うございました。
おはようございます。
青田です。
江戸時代の農民の暮らしですが、これは
黒田先生のおっしゃる『独立採算制』というのが
キーワードだと思います。
というのも、統治にいたる経緯がその後の藩政に影響するからです。
<天領>
戦国時代、関東を統治していた北条氏は、善政を敷いていて、戦国時代で、もっとも少ない、年貢の徴収率(四公六民)にしていました。
その後、関東に移封になった徳川家康は、
円滑な統治をするために少ない、年貢の徴収率を踏襲しました。
というのも、領国経営に専念する上で、一揆などあれば、豊臣秀吉に対抗する力がなくなるからです。(事実、豊臣秀吉は、徳川家康の力を削ごうと思っていました。)
当然、江戸時代は、先例主義ですから、最初に少ない年貢の徴収率にすると、急に増税できません。
<肥後細川家>
肥後細川家は、商人から、借金をしまくるのに
農民には、寛容でした。その結果、庄屋クラスでも公共事業をする経済力があったそうです。
その理由として
① 肥後は、戦国時代に大きな一揆があったこと。(佐々成政は、統治に失敗して、切腹した。)
② その後、統治した加藤清正は、善政を敷いて
常に農民から、『あの時は、良かった。』と思われていたこと。
その加藤家も「取り潰し」になっているので、
お家の「取り潰し」は、他人事ではなかった。
③ 島原の乱が起こり、藩が「取り潰し」になったのを観ていたこと。
細川家の立場からすると
一揆による藩の取り潰しは、常に潜在的な恐怖としてあった気があります。
結論としては、『農民の暮らしは、各藩の藩政』の経緯が影響している気がします。
いわゆる「地方格差」ですね。
仰るとおり、独立採算制であったがゆえに全国各地で様々な格差がありますね。
ブログでの表現が「すべての農民」という解釈につながらないようにする必要があるかもしれません。
自身のブログは個人的な利用目的なので、ここで公開する事は出来ません。
私は、幼少から歴史が好きでした。最初は源平争乱の時代でしたが、
次第に、大日本帝国時代に至るまで興味を持つようになりました。
同じ趣味の友人の影響で”特攻隊”にも憧れ、軍歌を口ずさんでみたり、
ちょっと変わった”右翼少年”だったと思います。
今のようにPCの無い時代、学校の図書館が私達の求める場所でした。
しかし、小学生だった当時でも、歴史に綺麗事を求めたりしませんでした。
生々しい現実、人々のたくましい生き様を見て驚き、衝撃を受けながら、
あくまで冷静に判断しようとしていました。
「歴史に良いも悪いもない。ただ、現実がそこにあるだけ。」
これが幼少の頃からの私の歴史に対する認識です。
黒田さんのブログを拝見しましたが、非常に分かりやすく書かれており、
さすが社会の先生だけのことはあるな、と率直に感心しました。
ですが、ひとつ気になった点を言いますと、プロフィールにある
「分かりやすく”楽しい”歴史の実践」という部分です。
”歴史には現実しかない”という私の考えでは、「楽しい歴史」など存在
しないからです。
もし存在しないものを存在させようとすると、そこには人為的な作業が
必要になります。いわゆる捏造です。
「楽しい歴史」というのは、その段階で”結論ありき”でありませんか?
冒頭の「2000年を超える世界に誇るべき皇室」部分についても、
私には、過大なナショナリズム、プロパガンダに思えます。
日本人の祖先は大陸からの渡来人に間違いなく、天照など古代神話の
世界観は、キリスト教のそれとほぼ同じです。
(最近では、天皇家が登場する以前にヤマトやツガルといった民族がいた
という研究もあります)
私達が歴史を学ぶ(あるいは知ろうとする)目的は何でしょう?
黒田さんの言われる「先人に学ぶ」というのも目的の一つですね。
ですが、「正しい歴史を知ること」こそが私の一番の目的です。
「日本は伝統があり誇り高き国家だ」
「江戸時代は太平の世で、庶民も裕福に暮らしていた良い時代だった」
このように史実を作り上げて、”日本は美しい国家だ!”という必要が
どこにあるのですか?ナショナリズムを鼓舞する以外で。
歴史には、光の部分と影の部分が存在するのは当然です。
その影の部分まで”正当化”しようとすれば、無理が生じるのは必然です。
もし仮に、国威高揚のためだとしても、表面的な歴史をいじるよりも、
”人物”を取り挙げた方がよほどマシでしょう。
江戸期に限っても、上杉鷹山、山田方谷、岩井継之助など、民政家だけ
でも大勢います。
楽しいかどうかは別として、年表やあらすじだけに終始せず、こういった
”偉人”にスポットライトを当てるのが、本来の歴史教育では?と思います。
ええ。戦国時代の善政の例は、他に、
武田信玄、仁科盛信、明智光秀、石田三成など、たくさんありますね。
各藩で格差があったことも確かでしょう。
飢饉の多かった東北と西日本では、当然事情は違いますね。
”取り潰し”の恐怖ですが、確かにその可能性は否定できませんが、
原因の多くは、「後嗣断絶」といったお家騒動ですね。
まぁ、幕府による言いがかりの類もあったようですが。
「島原の乱」、「由比小雪の乱」などは性格が異なるので、例外では?
江戸時代、確かに前例主義でしたが、「年貢率を変更してはならない」
という法度がありましたか?
もしそうなら、先に書いたように、幕府や大名は、「裕福な農民を片目に
見ながらほぞを噛んでいた」ということになりますね(豊作の場合)。
逆に飢饉の場合は、”血も涙もない苛酷な取立て”になりますね。
話を戻しますが、「地方格差」は当然あるでしょう。
ここで問題視しているのは、その部分ではなく、「全体」です。
”総石高がいくらで、人口がいくらだから、庶民が飢えるのはおかしい”
こういう机上の計算が現実であったかどうか、という点です。
例えば、現在の日本に言い換えると分かりやすいですね。
「国民資産が1400兆円あり、人口は1億28百万人なので・・・
一人当たり1000万超の資産を持っている」という計算になります。
後世の人が、「当時の日本人はみんな相当金持ちだったんだな~」
と言っているのと同じ理屈です。
冨は公平分配されるのが”理想”です。
しかし、残念ながら、人類史上古今東西、そのような例はありません。
「日本がすべて悪い」とする自虐史観において我が国の未来ある子供たちが洗脳され、日本史嫌いから日本嫌いになり、将来への自信をなくしつつある現状を憂えるとともに、自分の力でこのような情勢を打破できないかと行動に至ったのが私が教師になるきっかけのひとつでした。
自虐史観を乗り越えるに際して、私が目指したのは「歴史は決してつまらなく、あるいは難しいものではない。日本という国の長い物語を楽しく学ぶことが大切だ」ということであり、拙ブログも「物語的」で「楽しい」歴史を紹介するということが大きな背骨になっています。
それがプロパガンダと仰るのであれば確かにそのとおりかもしれません。
我が国の精神は誇りある歴史から学ぶものであるという思いで、私は今後もブログを続けてまいりますが、大国さんのお考えも十分傾聴に値すると思います。
今後もそれぞれの立場で意思表明ができれば良いですね。
この度はご意見有難うございました。大国さんとの当該記事においての意見交換はこのあたりで一区切りとさせていただきたく存じます。
他人様のブログにおいては管理人以外の活発な意見の交換が行われることがよくありますが、拙ブログの性格を考慮して、ここでは必要最小限に留めたいと思います。
以上は管理人としてのお願いですが、断じて言論弾圧の性格を持つものではありませんのでご理解ください。