長い戦国時代が終わって世の中が平和になったことで、17世紀に入ってから人口が急増し、それに伴(ともな)って全国各地で新田開発(しんでんかいはつ)が急速に進みました。これによって17世紀末の我が国の人口は約2,700万人と100年前の2倍以上となり、村の数も全国で6万3,000余(あま)りまで増加しています。
村の種類としては、農業を中心とする農村を主体として漁村(ぎょそん)や山村(さんそん)、あるいは定期市などが行われて都市化した在郷町(ざいごうちょう)などがあり、その行政は名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村方三役(むらかたさんやく)によって運営されました。
このうち名主は村の長であり、村内の由緒(ゆいしょ)ある地主が世襲(せしゅう)することが多く、主に年貢の管理や治安維持にあたりました。なお、名主という呼び方は主に東日本で使用され、西日本では庄屋(しょうや)、東北・北陸・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ばれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
最後の肝煎という言葉で
私は「おてもやん」の歌詞の中で
村役 鳶役 肝いりどん
という箇所の言葉を思い浮かべて
しまいました(笑)
この唄は九州地方の唄ですが、
そちらでも肝煎と呼ばれていたのでしょうか。。
それともまた全く違う意味で使われて
いたのでしょうかね?
応援凸
私の故郷はいまだ「新田」と呼ばれています。
晴雨堂ミカエル 私の先祖は山内家が土佐に封じられた後、家老寺村氏(中老かもしれない)に従って現在の香美市周辺の山間部で新田開発を行いました。今でも郷里では「新田」という単語が飛び出します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「おてもやん」で肝煎が出てきますね。
「肝煎」は東北地方のほかに、北陸や九州でも使われていたようです。
ぴーちさんがご指摘されるまで私も気づきませんでした(^^ゞ
本文を一部修正させていただきます。
有難うございましたm(_ _)m
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、それだけ新田開発に対する強力な意識があったんでしょうね。
全国の地名にも「新田」がたくさん残っているのもその一つなのでしょう。
ぴーち そうでしたか(*_*;
いえいえ、黒田さんにも筆の誤り。
こちらこそ、勉強させていただきありがとうございましたm(_ _)m
それにしても、九州、北陸、東北と随分場所が広範囲なんですね。たまたま全国に伝わりながら、最後まで名残が残ったのがその地域という事なのでしょうか・・・
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
肝煎の由来は私もよく分からないんですが、その地方での呼称にそれぞれの理由があったのかもしれませんね。
最後の肝煎という言葉で
私は「おてもやん」の歌詞の中で
村役 鳶役 肝いりどん
という箇所の言葉を思い浮かべて
しまいました(笑)
この唄は九州地方の唄ですが、
そちらでも肝煎と呼ばれていたのでしょうか。。
それともまた全く違う意味で使われて
いたのでしょうかね?
応援凸
「肝煎」は東北地方のほかに、北陸や九州でも使われていたようです。
ぴーちさんがご指摘されるまで私も気づきませんでした(^^ゞ
本文を一部修正させていただきます。
有難うございましたm(_ _)m
全国の地名にも「新田」がたくさん残っているのもその一つなのでしょう。
いえいえ、黒田さんにも筆の誤り。
こちらこそ、勉強させていただきありがとうございましたm(_ _)m
それにしても、九州、北陸、東北と随分場所が広範囲なんですね。たまたま全国に伝わりながら、最後まで名残が残ったのがその地域という事なのでしょうか・・・
肝煎の由来は私もよく分からないんですが、その地方での呼称にそれぞれの理由があったのかもしれませんね。