また、摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)の地位を天皇の皇子である親王(しんのう)よりも上位と定めた一方で、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしました。
このため、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家(くげ)から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起こることになりました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
あまり聞きなれない言葉ですからね。高校日本史ではよく出てくるので、今回の記事にも追加しました。
> 所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
> 毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
> 史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
「正義のヒーロー」にはつくられた部分が多々ありますからね。
娯楽と割り切ればそれまでですが、史実となると難しいかもしれません(^^ゞ
オバrev 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
しかし、これに対する反発はなかったんですか?
また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
> しかし、これに対する反発はなかったんですか?
もちろんありました。
次回(25日)から詳しく紹介します。
> また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
そのとおりです。政治の実権はなくても朝廷での地位が向上しましたから、当初の幕府と摂関家との関係は良好だったようですね。
公家の暮らし
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
朝廷は、3万石の領地しかないですが、
ということは、この当時の天皇や公家の暮らしぶりは
どうだったんでしょうか。
当然、平安時代のように華やかな生活ではないとは思うのですが、
関白より下の身分の公家は、そんな石高で、
本当に生活できたのか、不思議です。
青田さんへ
黒田裕樹 三万石とはいえ所領をお持ちの天皇はともかくとして、下級の公家の生活は決して楽ではなかったようですね。
様々な内職をしていたようで、中には屋敷内で博打を黙認していた公家もいたようです。そんな環境だったからこそ、幕府に対する恨みが受け継がれて、幕末に一気に爆発したとも言えますね。
武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
応援凸
あまり聞きなれない言葉ですからね。高校日本史ではよく出てくるので、今回の記事にも追加しました。
> 所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
> 毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
> 史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
「正義のヒーロー」にはつくられた部分が多々ありますからね。
娯楽と割り切ればそれまでですが、史実となると難しいかもしれません(^^ゞ
しかし、これに対する反発はなかったんですか?
また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
> しかし、これに対する反発はなかったんですか?
もちろんありました。
次回(25日)から詳しく紹介します。
> また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
そのとおりです。政治の実権はなくても朝廷での地位が向上しましたから、当初の幕府と摂関家との関係は良好だったようですね。
こんばんは
青田です。
朝廷は、3万石の領地しかないですが、
ということは、この当時の天皇や公家の暮らしぶりは
どうだったんでしょうか。
当然、平安時代のように華やかな生活ではないとは思うのですが、
関白より下の身分の公家は、そんな石高で、
本当に生活できたのか、不思議です。
様々な内職をしていたようで、中には屋敷内で博打を黙認していた公家もいたようです。そんな環境だったからこそ、幕府に対する恨みが受け継がれて、幕末に一気に爆発したとも言えますね。