江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町(じょうかまち)に集住(しゅうじゅう)させたうえで、領内全体を大名が直轄(ちょっかつ)して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄制度(ほうろくせいど)が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統(けっとう)が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易(かいえき)や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人(ろうにん、別名を浪人)が発生し、彼らの存在はやがて治安上の深刻な問題となっていきました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
タカシ☆TZR 当時,「藩」という呼称は正式な行政用語でないので,
> 大名が支配する領地や、その支配組織は藩(はん)と呼ばれました。
というとちょっと違和感がありますが,
どうお考えですか?
大名の取り潰し
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。徳川家康
徳川秀忠、徳川家光までの間に取り潰された
大名は126です。
しかも、
外様大名
最上57万石
福島49万石
加藤52万石
親藩でも
松平忠輝75万石
譜代でも
本多正純
大久保忠隣
が改易されています。
親藩であろうと、譜代であろうと
外様の大藩であろうと、おかまいなしです。
この状況で、取り潰されなかった伊達政宗が
不思議です。
(あれだけ、黒い陰謀の噂が絶えなかったのに)
やはり、伊達政宗の場合、徳川秀忠、徳川家光の
お気に入りというのが、大きかったのかもしれませんね。
ぴーち こんにちは!
武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
応援凸
サクラ 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 ご指摘有難うございます。
仰るとおり、藩の呼称は当時は一般的には用いられませんでした。
誤解を招く文章であると考えられますので、訂正させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 江戸幕府の当初は、親藩であろうが外様であろうが、幕府に対抗すると思われる勢力は片っ端から取り潰しました。
その様子を見た各藩、特に外様大名は恐怖におびえ、前田家などは鼻毛を伸ばしてバカ殿のふりをしていたというエピソードが残っています。
伊達政宗も晩年は福島正則といきなり相撲を取り出すなど、乱心のふりをしていたといいますから、こうした涙ぐましい努力が伊達家を生きながらえさせたのかもしれませんね(もっとも、この後すぐに伊達騒動が起きるわけですが)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
> 当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
そうですね。
跡継ぎがいなくなるということは、仰るとおり「お家」が無くなることでしたから、幕府にとっては取り潰しの口実になりますからね。
でも世の中は厳しすぎると…。後に幕府は強烈なしっぺ返しを食らうことになります。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
> ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
さすがはサクラさんですね。仰るとおりです。
幕府による法令は基本的に天領でのみ通用しましたから、生類憐みの令も他領では強制力がありませんでした。
もっとも、大都市の江戸における生類憐みの令による効果(人命尊重の社会への劇的な変化)は他領にも広がることになったと考えられています。
近代国家
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕末で、日本を一つにして、欧米のような
先進国にしようと幕末の志士は、頑張りましたが
よく、考えると
◆ アメリカは、各州が独自の政治・経済を持ち
政治は、ワシントン州、経済は、ニューヨーク、
シカゴ、カリフォリニアと分散しています。
◆ イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと分散しています。
そう考えると
江戸時代は、
① 政治は江戸、経済は大阪、権威は京都
と分散。
②各藩が独自の政治・経済を有する。
こう考えると
江戸時代の国のカタチというのは、諸外国と
比べて、特別、いびつではないという気がします。
但し、明治政府としては
①国防という面での国の統一性。
② 急激な近代化の促進。
を進めるうえでは、仕方なかったのでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府による幕藩体制はごく普通の政治機構です。
ただ、帝国主義の食うか食われるかの世の中においては、国民が一つとしてまとまるためにも中央集権国家にする必要がありました。
しかし首都機能のあまりもの集中ぶりが、今日の震災のような非常時に機能不全を起こす原因となってしまいます。
今こそ、単なる「遷都」ではない、首都機能の分散が求められているのかもしれません。
> 大名が支配する領地や、その支配組織は藩(はん)と呼ばれました。
というとちょっと違和感がありますが,
どうお考えですか?
こんにちは
青田です。徳川家康
徳川秀忠、徳川家光までの間に取り潰された
大名は126です。
しかも、
外様大名
最上57万石
福島49万石
加藤52万石
親藩でも
松平忠輝75万石
譜代でも
本多正純
大久保忠隣
が改易されています。
親藩であろうと、譜代であろうと
外様の大藩であろうと、おかまいなしです。
この状況で、取り潰されなかった伊達政宗が
不思議です。
(あれだけ、黒い陰謀の噂が絶えなかったのに)
やはり、伊達政宗の場合、徳川秀忠、徳川家光の
お気に入りというのが、大きかったのかもしれませんね。
武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
応援凸
ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
仰るとおり、藩の呼称は当時は一般的には用いられませんでした。
誤解を招く文章であると考えられますので、訂正させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
その様子を見た各藩、特に外様大名は恐怖におびえ、前田家などは鼻毛を伸ばしてバカ殿のふりをしていたというエピソードが残っています。
伊達政宗も晩年は福島正則といきなり相撲を取り出すなど、乱心のふりをしていたといいますから、こうした涙ぐましい努力が伊達家を生きながらえさせたのかもしれませんね(もっとも、この後すぐに伊達騒動が起きるわけですが)。
> 当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
そうですね。
跡継ぎがいなくなるということは、仰るとおり「お家」が無くなることでしたから、幕府にとっては取り潰しの口実になりますからね。
でも世の中は厳しすぎると…。後に幕府は強烈なしっぺ返しを食らうことになります。
> ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
さすがはサクラさんですね。仰るとおりです。
幕府による法令は基本的に天領でのみ通用しましたから、生類憐みの令も他領では強制力がありませんでした。
もっとも、大都市の江戸における生類憐みの令による効果(人命尊重の社会への劇的な変化)は他領にも広がることになったと考えられています。
こんにちは
青田です。
幕末で、日本を一つにして、欧米のような
先進国にしようと幕末の志士は、頑張りましたが
よく、考えると
◆ アメリカは、各州が独自の政治・経済を持ち
政治は、ワシントン州、経済は、ニューヨーク、
シカゴ、カリフォリニアと分散しています。
◆ イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと分散しています。
そう考えると
江戸時代は、
① 政治は江戸、経済は大阪、権威は京都
と分散。
②各藩が独自の政治・経済を有する。
こう考えると
江戸時代の国のカタチというのは、諸外国と
比べて、特別、いびつではないという気がします。
但し、明治政府としては
①国防という面での国の統一性。
② 急激な近代化の促進。
を進めるうえでは、仕方なかったのでしょうね。
ただ、帝国主義の食うか食われるかの世の中においては、国民が一つとしてまとまるためにも中央集権国家にする必要がありました。
しかし首都機能のあまりもの集中ぶりが、今日の震災のような非常時に機能不全を起こす原因となってしまいます。
今こそ、単なる「遷都」ではない、首都機能の分散が求められているのかもしれません。