作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう大坂夏の陣(おおさかなつのじん)です。なお、この後に秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡(めつぼう)しました。
1614年から1615年にかけての二度にわたる戦いを、併(あわ)せて大坂の役(おおさかのえき)ともいいます。この戦い以降、徳川家に表立って対抗(たいこう)する勢力はいなくなり、江戸幕府は19世紀後半まで約260年以上も続きました。この時代を江戸時代(えどじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev 確かに世の中は平和となり安定したのですが、この大阪の役の家康の姑息なやり方は、あまり好きじゃないんですよ。
それに、確かに若い時に苦労しているのは分かりますが、往年があまり完璧すぎに見えることに、日本人独特の?判官贔屓も手伝ってでしょうか、この場面だけは豊臣を応援したくなります(^_^;)
HANA子 秀吉が一代で築き上げた豊臣の「正に歴史絵巻」というべきストーリーにはある種のカタルシスを強く感じます。
平家物語のそれもそうですが、
勃興し隆盛を極め、やがて衰退していくその花のような、栄枯盛衰の姿がやはり日本人の感情・・・感傷でしょうか? に強く訴えるからなのかなと。
疑問点
青田です。 黒田先生、皆さん
こんばんは
青田です。
この大阪の陣ですが、疑問があります。
それは、淀殿です。
澱殿が、豊臣家に固執する理由が?です。
① 淀殿にとって、豊臣秀吉は、父親の浅井長政、義父の柴田勝家を殺した憎い敵。
② そもそも、豊臣家も、秀吉が死に、大政所が
死に、甥の秀次が死に、北の政所も京都で、出家していて、秀頼以外、完全に崩壊状態。
そう考えると、澱殿の守りたい豊臣家自体?である。
本当は、豊臣家を守りたいのではなく、過去のトラウマで、自分の居場所がなくなるのが、怖かったのでは。。
③ 淀殿の妹は、お江で、二代将軍秀忠の正室だった。
ドラマでは、仲がイイと描かれていたが、それなら、もっと宥和策が取れたのでは。。。
④ あの(武田信玄、豊臣秀吉と互角に渡り合えた)
徳川家康なら、わざわざ、大阪の陣を起こさなくても
秀頼と淀殿しかいない大阪方を倒すのは、もっと
簡単だったのでは。。
皆さんは、どう思いますか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大坂の役以前からの家康の行動は決してほめられたものではありませんし、大阪在住の私としては家康の汚い手段は絶対に許すことはできません。
しかしながら、この頃の豊臣家に全国を支配するだけの実力があったかといえば、どう考えても疑問符を付けざるをえませんし、家康は結果として江戸時代として200年以上の平和を保っていますから、やはり家康側に軍配を上げざるをえません。
とはいえ、これも仰るとおり、日本人独特の判官贔屓の感情は、源義経がそうであるように、滅びた豊臣家を慕うようになりますね。これが歴史の複雑なところでもあります。
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るような感情や感傷は、日本人独特のものであり、それがまた日本人の感性を高めているのでしょうね。
平家物語のような「敗者の歴史」がつづられているというのも考えてみれば不思議な話ですが、豊臣家の歴史も同じように語り継がれるあたりが、いかにも我が国という感じがします。
青田さんへ
黒田裕樹 淀殿にとって、秀吉という存在は愛憎ともに深かったのではないでしょうか。そんな複雑な感情が、秀吉亡き後の豊臣家の運命を翻弄(ほんろう)したような思いがします。
また、淀殿は秀吉に引き取られるまでに二度の落城を経験していますから、そんな彼女の運命がトラウマとなった可能性は十分考えられますね。ちなみに、淀殿は生涯の最期において三度目の落城(大坂城)を経験するというのも皮肉な話ですが。
大坂の役については、本文にもあるように残り少ない家康の寿命がこのような結果になったと思われます。確かにもう少し違った展開があっても良かったかもしれませんが…。
大阪城
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
あれから、浮かんだことですが、
徳川家康が、恐れていたのは
豊臣家でも、秀頼でもなく、
本当は、難攻不落の大阪城だった気がします。
というのも、徳川家康は、
大阪の陣になる前に、国替えの条件を
豊臣方に出しているからです。
しかも、大阪の冬の陣で、結局、決着が着かず
大阪夏の陣まで、持ち越しています。
歴史のif・・大阪冬の陣で、和議を結ばなければ
◆ 徳川方は、大軍勢で、長引くほど、食糧が不足し、外様大名から、不満が膨れ上がる。
やがて、厭世ムードになるのでは。。
◆ 徳川家康は、夏の陣の翌年に死亡している。
徳川秀忠は、娘の千姫が豊臣秀頼の正室、自分の
正室がお江で、強硬策を取れないのでは。。。
◆ 大阪城には、金銀が豊富にあり、かなりの
期間、籠城できる。
どちらにしろ、大阪城は、正攻法では、落とせませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
難攻不落の大坂城を恐れたがゆえに、国替えさえ認めれば豊臣家は存続できたかもしれません。
大砲で昼夜を問わず攻撃し、外堀だけの約束のはずが内堀までも強引に埋めた。
これらの流れを考えても、大坂城の攻略に家康が神経をとがらせていたのが想像できますね。
なおまゆ 黒田先生、青田さんおはようございます。
青田さんが喝破したように、淀殿は謎です。
父の仇、義父の仇、弟の仇である秀吉の側室になった経緯も不明。
権力者の妻が妹なのに何も情状酌量なし。
淀殿には出生の秘密があったという説もあります。(俗説でしょうが、織田信長とお市の間の近親相姦の子という物です。もしそうなら、秀吉に対する憎しみがないのは説明がつきますし、妹との交流がそれほど親密ではなかったことも説明がつきます。)
いずれにしても、家康は、豊臣家を徹底的に滅亡させなければ、徳川が危ないと知っていました。
平清盛が源頼朝を助命した為、平家が滅んだことをを歴史の教訓として学んでいたのでしょう。
平和を維持する為に、あくどいやり方も時には必要だと現代の政治家が学んでくれればよいのでスガ。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 淀殿の俗説は以前からなおまゆさんがご指摘されておられますね。
家康が歴史に学んで豊臣家を徹底的に叩き潰したことは確かに正しかったです。
平和は綺麗事だけで達成できるものではない。そんな当たり前の常識を理解できない素人な政治家が多すぎます。
孫子の兵法
青田です。 黒田先生、なおまゆさんへ
こんばんは
青田です。
黒田先生、なおまゆさん
『戦いは、きれいごとではない。』
の仰せの通りだと思います。
というのも、
私の愛読書である孫子の兵法には
『戦わずして、勝つ』ことが基本中の基本だと
あります。
毛利元就も孫子の兵法にかなり、忠実で、
謀略は、鉄砲と同じレベルの武器のように
孫子の兵法ではあります。
ただ、戦国時代になるまで、そういう戦い方の歴史が日本には、少なかっただけなのでしょうね。
ただ、腑に落ちないのは、徳川家康は、豊臣秀吉が死ぬまで、律儀者だったのに、
その後から、謀略が冴えています。
よく、考えると、徳川家康は、この頃から、
謀略の軍師として、本多正信を重用しています。
慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、
家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われています。
もし、本多正信が、流浪から、復帰しないままなら、歴史は、変わっていたかもしれませんね。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰るとおり、戦国時代の戦法はそれまでの我が国にはなかなか見られない者でした。
時代や経験によって変化していったのでしょう。
本多正信の存在は確かに大きそうですね。
一人の人間の存在によって歴史が変わる。
偶然というのは恐ろしいものです。
それに、確かに若い時に苦労しているのは分かりますが、往年があまり完璧すぎに見えることに、日本人独特の?判官贔屓も手伝ってでしょうか、この場面だけは豊臣を応援したくなります(^_^;)
平家物語のそれもそうですが、
勃興し隆盛を極め、やがて衰退していくその花のような、栄枯盛衰の姿がやはり日本人の感情・・・感傷でしょうか? に強く訴えるからなのかなと。
こんばんは
青田です。
この大阪の陣ですが、疑問があります。
それは、淀殿です。
澱殿が、豊臣家に固執する理由が?です。
① 淀殿にとって、豊臣秀吉は、父親の浅井長政、義父の柴田勝家を殺した憎い敵。
② そもそも、豊臣家も、秀吉が死に、大政所が
死に、甥の秀次が死に、北の政所も京都で、出家していて、秀頼以外、完全に崩壊状態。
そう考えると、澱殿の守りたい豊臣家自体?である。
本当は、豊臣家を守りたいのではなく、過去のトラウマで、自分の居場所がなくなるのが、怖かったのでは。。
③ 淀殿の妹は、お江で、二代将軍秀忠の正室だった。
ドラマでは、仲がイイと描かれていたが、それなら、もっと宥和策が取れたのでは。。。
④ あの(武田信玄、豊臣秀吉と互角に渡り合えた)
徳川家康なら、わざわざ、大阪の陣を起こさなくても
秀頼と淀殿しかいない大阪方を倒すのは、もっと
簡単だったのでは。。
皆さんは、どう思いますか。
しかしながら、この頃の豊臣家に全国を支配するだけの実力があったかといえば、どう考えても疑問符を付けざるをえませんし、家康は結果として江戸時代として200年以上の平和を保っていますから、やはり家康側に軍配を上げざるをえません。
とはいえ、これも仰るとおり、日本人独特の判官贔屓の感情は、源義経がそうであるように、滅びた豊臣家を慕うようになりますね。これが歴史の複雑なところでもあります。
平家物語のような「敗者の歴史」がつづられているというのも考えてみれば不思議な話ですが、豊臣家の歴史も同じように語り継がれるあたりが、いかにも我が国という感じがします。
また、淀殿は秀吉に引き取られるまでに二度の落城を経験していますから、そんな彼女の運命がトラウマとなった可能性は十分考えられますね。ちなみに、淀殿は生涯の最期において三度目の落城(大坂城)を経験するというのも皮肉な話ですが。
大坂の役については、本文にもあるように残り少ない家康の寿命がこのような結果になったと思われます。確かにもう少し違った展開があっても良かったかもしれませんが…。
こんにちは
青田です。
あれから、浮かんだことですが、
徳川家康が、恐れていたのは
豊臣家でも、秀頼でもなく、
本当は、難攻不落の大阪城だった気がします。
というのも、徳川家康は、
大阪の陣になる前に、国替えの条件を
豊臣方に出しているからです。
しかも、大阪の冬の陣で、結局、決着が着かず
大阪夏の陣まで、持ち越しています。
歴史のif・・大阪冬の陣で、和議を結ばなければ
◆ 徳川方は、大軍勢で、長引くほど、食糧が不足し、外様大名から、不満が膨れ上がる。
やがて、厭世ムードになるのでは。。
◆ 徳川家康は、夏の陣の翌年に死亡している。
徳川秀忠は、娘の千姫が豊臣秀頼の正室、自分の
正室がお江で、強硬策を取れないのでは。。。
◆ 大阪城には、金銀が豊富にあり、かなりの
期間、籠城できる。
どちらにしろ、大阪城は、正攻法では、落とせませんね。
難攻不落の大坂城を恐れたがゆえに、国替えさえ認めれば豊臣家は存続できたかもしれません。
大砲で昼夜を問わず攻撃し、外堀だけの約束のはずが内堀までも強引に埋めた。
これらの流れを考えても、大坂城の攻略に家康が神経をとがらせていたのが想像できますね。
青田さんが喝破したように、淀殿は謎です。
父の仇、義父の仇、弟の仇である秀吉の側室になった経緯も不明。
権力者の妻が妹なのに何も情状酌量なし。
淀殿には出生の秘密があったという説もあります。(俗説でしょうが、織田信長とお市の間の近親相姦の子という物です。もしそうなら、秀吉に対する憎しみがないのは説明がつきますし、妹との交流がそれほど親密ではなかったことも説明がつきます。)
いずれにしても、家康は、豊臣家を徹底的に滅亡させなければ、徳川が危ないと知っていました。
平清盛が源頼朝を助命した為、平家が滅んだことをを歴史の教訓として学んでいたのでしょう。
平和を維持する為に、あくどいやり方も時には必要だと現代の政治家が学んでくれればよいのでスガ。
家康が歴史に学んで豊臣家を徹底的に叩き潰したことは確かに正しかったです。
平和は綺麗事だけで達成できるものではない。そんな当たり前の常識を理解できない素人な政治家が多すぎます。
こんばんは
青田です。
黒田先生、なおまゆさん
『戦いは、きれいごとではない。』
の仰せの通りだと思います。
というのも、
私の愛読書である孫子の兵法には
『戦わずして、勝つ』ことが基本中の基本だと
あります。
毛利元就も孫子の兵法にかなり、忠実で、
謀略は、鉄砲と同じレベルの武器のように
孫子の兵法ではあります。
ただ、戦国時代になるまで、そういう戦い方の歴史が日本には、少なかっただけなのでしょうね。
ただ、腑に落ちないのは、徳川家康は、豊臣秀吉が死ぬまで、律儀者だったのに、
その後から、謀略が冴えています。
よく、考えると、徳川家康は、この頃から、
謀略の軍師として、本多正信を重用しています。
慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、
家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われています。
もし、本多正信が、流浪から、復帰しないままなら、歴史は、変わっていたかもしれませんね。
時代や経験によって変化していったのでしょう。
本多正信の存在は確かに大きそうですね。
一人の人間の存在によって歴史が変わる。
偶然というのは恐ろしいものです。