しかし、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)があるはずがなく、言いがかりも甚(はなは)だしいものでした。
ところが当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまったのです。豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ駿府まで送りましたが、家康が会おうとしなかったために、且元はそのまま駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を返し、その後に家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)しました。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになってしまいました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)となった豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は豊臣家に対して宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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HANA子 家康の強みは人という存在について誰よりも知っていることだったと思っています
誰よりも人を見ることをしてきたからこそ、誰よりも人の心の動きを知ることが出来た
彼を知り己を知れば百戦皆危うからず、ですか
実の所、徳川家康という人物と漢の高祖劉邦は色んな面で似ている人物ではなかったかとか妄想しています
どれだけ苦渋を舐めても、最後に勝てばそれでいいという思考の面とか
うぅん・・・我ながらちょっと無理のある解釈かも^^;
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、鋭い観察眼が他人の心の動きを見ることができた、ということですね。
家康が高祖ですか…。
言われてみれば、辛抱に辛抱を重ねた末に最後で大逆転するあたりは確かに似ていますね。
その後に長期政権(漢は前後に分かれますが)を築いたあたりも同じですし。
決して無理な解釈ではないと思いますよ(^^♪
高祖
青田です。 黒田先生、HANA子さん
こんばんは
青田です。
私のイメージでは、高祖(劉邦)=豊臣秀吉
です。
◆ 劉邦も豊臣秀吉も貧しい農民の出身
◆ 劉邦には、張良と陳平という軍師がいた。
豊臣秀吉には、竹中半兵衛と黒田官兵衛と軍師がいた。
◆ 劉邦は、謙虚に頭を下げることもでき
泣くこともできた。
豊臣秀吉も、謙虚で、泣き落し、誉めることが
得意。
◆ 劉邦は、気前よく、領土を与えて、敵を味方にした。(韓信、鯨布など)
豊臣秀吉もかつての、織田信長の敵を家臣団に
組み入れた。
(上杉氏、毛利氏、長宗我部氏など)
ただ、高祖は、天下を取った後、独裁者病になり
功臣を次々と粛清しました。
これは、仕方ないことなんでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおり確かに秀吉のイメージもありますね。
高祖の晩年も、秀吉による秀次に対する仕打ちに似ているような気がします。
独裁者の「毒」は、すべての人間に共通する病のようなものですね。
淀殿
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
淀殿は、父親(浅井長政)、母親(お市の方)
兄弟(兄?)を秀吉に殺されています。
もし、秀吉にたいする深い、恨みがあるとすると
淀殿の行動は、納得できます。
① 秀頼を生むことにより、側室の身分でしかない澱殿が豊臣家を乗っ取る。
→ 淀殿には、何の官職もなく、しかも、単なる側室でしない。
* 豊臣秀吉には、側室が多くいて、年齢的にも
高齢であるのに、淀殿だけに子供が2回も生まれるのは、どう考えてもおかしい。
② 大坂の陣で、憎い豊臣家を滅ぼす。
→ 豊臣秀吉在名中に豊臣秀吉の一族は、ことごとく、
追放、もしくは、死亡。
・秀吉の死亡後、正室の北の政所は、大阪城から、退去。
・ 甥の豊臣秀次は、その一族まで、斬首。
・ 北の政所の親戚の養子の秀秋は、小早川家に
養子に出される。
・ 甥の豊臣秀保が不審死。
つまり、豊臣家は、澱殿が秀吉の側室になった時期から
歯車がおかしくなったわけです。
この当時、女性が復讐する方法としては
澱殿のようなやり方しかないと思います。
これって、考えすぎですかね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 淀殿の視線で見れば、確かに考え過ぎでないような思いもします。
ただ、彼女の復讐が彼女自身の破滅にもつながることが見えていなかった。
そう考えれば復讐の炎は恐ろしいですし、また「英雄色を好む」は決して英雄のためにはならないこともよく分かりますね。
誰よりも人を見ることをしてきたからこそ、誰よりも人の心の動きを知ることが出来た
彼を知り己を知れば百戦皆危うからず、ですか
実の所、徳川家康という人物と漢の高祖劉邦は色んな面で似ている人物ではなかったかとか妄想しています
どれだけ苦渋を舐めても、最後に勝てばそれでいいという思考の面とか
うぅん・・・我ながらちょっと無理のある解釈かも^^;
家康が高祖ですか…。
言われてみれば、辛抱に辛抱を重ねた末に最後で大逆転するあたりは確かに似ていますね。
その後に長期政権(漢は前後に分かれますが)を築いたあたりも同じですし。
決して無理な解釈ではないと思いますよ(^^♪
こんばんは
青田です。
私のイメージでは、高祖(劉邦)=豊臣秀吉
です。
◆ 劉邦も豊臣秀吉も貧しい農民の出身
◆ 劉邦には、張良と陳平という軍師がいた。
豊臣秀吉には、竹中半兵衛と黒田官兵衛と軍師がいた。
◆ 劉邦は、謙虚に頭を下げることもでき
泣くこともできた。
豊臣秀吉も、謙虚で、泣き落し、誉めることが
得意。
◆ 劉邦は、気前よく、領土を与えて、敵を味方にした。(韓信、鯨布など)
豊臣秀吉もかつての、織田信長の敵を家臣団に
組み入れた。
(上杉氏、毛利氏、長宗我部氏など)
ただ、高祖は、天下を取った後、独裁者病になり
功臣を次々と粛清しました。
これは、仕方ないことなんでしょうね。
高祖の晩年も、秀吉による秀次に対する仕打ちに似ているような気がします。
独裁者の「毒」は、すべての人間に共通する病のようなものですね。
こんばんは
青田です。
淀殿は、父親(浅井長政)、母親(お市の方)
兄弟(兄?)を秀吉に殺されています。
もし、秀吉にたいする深い、恨みがあるとすると
淀殿の行動は、納得できます。
① 秀頼を生むことにより、側室の身分でしかない澱殿が豊臣家を乗っ取る。
→ 淀殿には、何の官職もなく、しかも、単なる側室でしない。
* 豊臣秀吉には、側室が多くいて、年齢的にも
高齢であるのに、淀殿だけに子供が2回も生まれるのは、どう考えてもおかしい。
② 大坂の陣で、憎い豊臣家を滅ぼす。
→ 豊臣秀吉在名中に豊臣秀吉の一族は、ことごとく、
追放、もしくは、死亡。
・秀吉の死亡後、正室の北の政所は、大阪城から、退去。
・ 甥の豊臣秀次は、その一族まで、斬首。
・ 北の政所の親戚の養子の秀秋は、小早川家に
養子に出される。
・ 甥の豊臣秀保が不審死。
つまり、豊臣家は、澱殿が秀吉の側室になった時期から
歯車がおかしくなったわけです。
この当時、女性が復讐する方法としては
澱殿のようなやり方しかないと思います。
これって、考えすぎですかね。
ただ、彼女の復讐が彼女自身の破滅にもつながることが見えていなかった。
そう考えれば復讐の炎は恐ろしいですし、また「英雄色を好む」は決して英雄のためにはならないこともよく分かりますね。