家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、加藤清正など豊臣派の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人してその影響力を高めることで、徳川家の将来に支障(ししょう)をきたす可能性も考えられるようになりました。
すでに70歳を超え、自分に残された時間が少ないことを悟(さと)った家康は、それまでの律義者(りちぎもの)の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を決定づけることになってしまったのです。




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