特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じく秀吉に忠実な家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らといつしか不仲となるとやがて対立し、三成が家康に対して兵を挙げると、彼らは家康に従うようになってしまったのです。
1600年の旧暦9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の関ヶ原(せきがはら)で激突(げきとつ)しました。戦いは西軍の優位で進みましたが、小早川秀秋(こばやかわひであき)が三成を裏切って家康側につくと形勢は一気に逆転して、三成はその日のうちに敗走しました。
世にいう関ヶ原の戦いに勝利した家康は、やがて西軍側の大名を次々と処分しました。例えば三成や小西行長(こにしゆきなが)らは京都で処刑され、宇喜多秀家(うきたひでいえ)は流罪(るざい)となるなど多くの大名が領地を没収(ぼっしゅう)されるとともに、西軍の総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)らが大幅に領地を削(けず)られました。
また豊臣家も、それまで所有していた金山などの豊富な資金源を徳川家に没収されたことで、大坂城(おおさかじょう)を中心とする65万石の一大名に転落し、この結果、家康は豊臣家に代わって天下取りに名乗りを挙げるようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここが、私の一番、好きな内容です。
というのが、
徳川家康が、この『関ヶ原の戦い』の後
豊臣家を滅ぼさず、15年間も裏工作をした
理由を考えた時、
① 関ヶ原の戦いの主力は、豊臣恩顧の大名で
その戦いの後も、大幅加増をしなければいけなかった。
② そうなった原因は、徳川秀忠の徳川本隊の
3万8000人の軍勢が、関ヶ原の戦いに遅参した。
そこで、歴史のifを考えた場合、
徳川秀忠の徳川本隊が、もし、『関ヶ原の戦い』に間に合ったとします。
そして、徳川の主力の力だけで、東軍を打ち破ったとしたら
① 豊臣恩顧の大名への大幅加増はなかった。
もっと早い段階で、豊臣家を滅ぼしていた。
と考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 興味深いifですね。こういう考察は、実社会でも必要だと思います。
私も基本的に青田さんと同意見です。ただ、加藤清正などの勢力を温存したまま大坂城を攻めていれば徳川家にとっては危険ですから、何らかの裏工作が行われた可能性もありますね。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
このifは、非常に可能性が高かったifなのですが
二代将軍は、徳川秀忠でしたが
ここで、忘れてはいけないのは
徳川秀忠は、三男だったという事実です。
長男の信康は、切腹。
次男の秀康は、結城家に養子に出されました。
ただ、徳川家康が家臣に誰が、後継ぎとして
適しているかを尋ねた時
大久保忠隣以外は、知勇に優れた秀康推す家臣が
大勢いたそうです。
もし、秀康が二代将軍になって、徳川家康が
関ヶ原の戦いの後、間もなく死ぬと
豊臣家への処遇もかなり、違っていたと思いますが
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ その2
黒田裕樹 結城秀康は家康に血筋を疑われていたこともあり、嫌われていましたね。
また、どう考えても自分以上のカリスマが有り得ない子であれば、家臣を信頼して政治を任せられる秀忠の方が徳川家のためには良かったと思います。
勇猛果敢と伝えられる秀康では、先走り過ぎるあまり家臣との不協和音をうみ、幕府が持たなかったかもしれません。また豊臣家も生かしていたかもしれませんが、そうなると毛利家や島津家以上の爆弾を抱えることになり、やはり幕府は短期間で崩壊していたでしょう。
徳川家康の子供
青田です。 こんにちは
黒田先生
青田です。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に生まれた後の
御三家の息子達は、可愛がりましたが
それ以前の息子達には、非常に過酷な父親だった
気がします。
長男の信康は、切腹
次男の秀康は、養子に出される。
六男の忠輝は、改易。
もちろん、それぞれ、理由はあると思いますが
関ヶ原の戦いの後に生まれた子供とは、格段の
差があったような気がします。
幕府内での、いろいろな思惑があったのかもしれませんが。。。
青田さんへ その3
黒田裕樹 関ヶ原の戦いの前後では、家康自身の立場も子の運命も全く異なりますからね。
関ヶ原以前はまだ家康の天下とは決まっていなかったし、長男の信康は信長の命令に従って切腹させたという特殊な事情がありました。
一方、関ヶ原以後は「自分の血のセーフティネット」という明確な目的がありましたから、御三家の基礎として大事に育てています。
天下人にとっては、自分の子もチェスの駒のような存在だったのでしょう。
官僚の鏡
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今、日本では、何かあると
『官僚が悪い。』と官僚批判ばかりしますが
豊臣政権、徳川政権でも、有能な官僚が
いたから、飛躍したと思います。
今度、講座を開く時
逆説~官僚の鏡:石田三成
という題で、官僚の力という切り口から
歴史講座を開催されると面白いと思います。
勝負師(徳川家康)
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、関ヶ原の戦いは、徳川家康に
とって、ギリギリの非常に危険な戦いだった
気がします。
① もし、大阪城の豊臣秀頼が出馬すれば、
豊臣恩顧の大名(福島正則など)が、西軍につく。
② 関ヶ原の戦いの中盤で、徳川家康は、本陣を
前線に移動させましたが、南宮山の吉川広家に
いくら根回しをしているといっても、非常に
危険である。(ヒトの心がどう転ぶか、わからないことを家康自身わかっている。)
③ 小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちかける。
結果的に、裏切ったから、良かったが
非常に危険。
こう考えると、この戦いは、本当にギリギリの
戦いだった気がします。
青田さんへ その4
黒田裕樹 何かあれば批判の矢面に立たされる官僚であっても、その官僚がいなければ世の中が回らないということは、石田三成あっての太閤検地ということが証明していますからね。
確かに興味深い企画ですね。ご助言有難うございます。
青田さんへ その5
黒田裕樹 関ヶ原に対して私たちは結果から見ていますから、どうしても「東軍有利」の視点で考えてしまいますが、実際には仰るとおりどちらが勝ってもおかしくなかったですからね。
家康には勝算があったといっても、秀忠が遅参した段階で非常に危険だったと思います。
よくぞ勝ったものですよね。
サラリーマンの夢
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
歴史のifですが、
石田三成が、西軍を創って、関ヶ原の戦いが
起き、
徳川家康は、負けた西軍にたいして、徹底的に取り潰しをし、その結果、100万石以上の大名は、前田氏のみになりました。
ここで、逆説ですが、
もし、石田三成が挙兵しなかったとして
関ヶ原の戦いがなかったとします。
そうすると、100万石以上の大名が多く存在することになり、徳川にとって、かなり、危うくなったのではありませんか。
上杉景勝は120万石
毛利輝元120万石
宇喜多秀家60万石
佐竹氏60万石
豊臣氏200万石
これらの大名が、恭順すると、徳川家康としても
もの凄い爆弾を抱えてしまいます。
、
青田さんへ その6
黒田裕樹 関ヶ原の戦いがなければ、徳川家康の出番はおそらくなかったでしょう。
もし家康にチャンスがあったとしても、正史のように彼の存命中の天下は考えにくいものがあります。
だとすれば、我が国では群雄割拠の時代が再び到来し、天下が再び乱れて多くの血が流されることになったかもしれませんね。
この事態を打開できる可能性があるのは…伊達政宗あたりでしょうか?
なおまゆ 三成は「気難しい美意識」をもって生きていたのでしょうね。家臣には忠誠を捧げられ、関が原では石田隊は奮戦していますよね。また、領主としての手腕も一流でした。
多くの大名を連合させることにも成功しました。
敵も多かったのは、三成の持つ美意識故かもしれません。また後世言われるように「狭量」ではなかったのかもしれません。上杉、佐竹、小西、毛利、大谷、宇喜多家などに信頼され日本を二つに割った大戦をプロデュースした手腕は加藤清正、福島正則、黒田長政らにはないものですもんね。
損な武将という感じがします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦いに負けたことで三成は実力を過小評価されているような気がします。
関ヶ原の戦いは三成だけにその原因を押し付けるのは酷ですし、一度じっくりと検証してみたいですね。
こんばんは
青田です。
ここが、私の一番、好きな内容です。
というのが、
徳川家康が、この『関ヶ原の戦い』の後
豊臣家を滅ぼさず、15年間も裏工作をした
理由を考えた時、
① 関ヶ原の戦いの主力は、豊臣恩顧の大名で
その戦いの後も、大幅加増をしなければいけなかった。
② そうなった原因は、徳川秀忠の徳川本隊の
3万8000人の軍勢が、関ヶ原の戦いに遅参した。
そこで、歴史のifを考えた場合、
徳川秀忠の徳川本隊が、もし、『関ヶ原の戦い』に間に合ったとします。
そして、徳川の主力の力だけで、東軍を打ち破ったとしたら
① 豊臣恩顧の大名への大幅加増はなかった。
もっと早い段階で、豊臣家を滅ぼしていた。
と考えますが、黒田先生は、どう思われますか?
私も基本的に青田さんと同意見です。ただ、加藤清正などの勢力を温存したまま大坂城を攻めていれば徳川家にとっては危険ですから、何らかの裏工作が行われた可能性もありますね。
こんにちは
青田です。
このifは、非常に可能性が高かったifなのですが
二代将軍は、徳川秀忠でしたが
ここで、忘れてはいけないのは
徳川秀忠は、三男だったという事実です。
長男の信康は、切腹。
次男の秀康は、結城家に養子に出されました。
ただ、徳川家康が家臣に誰が、後継ぎとして
適しているかを尋ねた時
大久保忠隣以外は、知勇に優れた秀康推す家臣が
大勢いたそうです。
もし、秀康が二代将軍になって、徳川家康が
関ヶ原の戦いの後、間もなく死ぬと
豊臣家への処遇もかなり、違っていたと思いますが
黒田先生は、どう思われますか?
また、どう考えても自分以上のカリスマが有り得ない子であれば、家臣を信頼して政治を任せられる秀忠の方が徳川家のためには良かったと思います。
勇猛果敢と伝えられる秀康では、先走り過ぎるあまり家臣との不協和音をうみ、幕府が持たなかったかもしれません。また豊臣家も生かしていたかもしれませんが、そうなると毛利家や島津家以上の爆弾を抱えることになり、やはり幕府は短期間で崩壊していたでしょう。
黒田先生
青田です。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に生まれた後の
御三家の息子達は、可愛がりましたが
それ以前の息子達には、非常に過酷な父親だった
気がします。
長男の信康は、切腹
次男の秀康は、養子に出される。
六男の忠輝は、改易。
もちろん、それぞれ、理由はあると思いますが
関ヶ原の戦いの後に生まれた子供とは、格段の
差があったような気がします。
幕府内での、いろいろな思惑があったのかもしれませんが。。。
関ヶ原以前はまだ家康の天下とは決まっていなかったし、長男の信康は信長の命令に従って切腹させたという特殊な事情がありました。
一方、関ヶ原以後は「自分の血のセーフティネット」という明確な目的がありましたから、御三家の基礎として大事に育てています。
天下人にとっては、自分の子もチェスの駒のような存在だったのでしょう。
こんばんは
青田です。
今、日本では、何かあると
『官僚が悪い。』と官僚批判ばかりしますが
豊臣政権、徳川政権でも、有能な官僚が
いたから、飛躍したと思います。
今度、講座を開く時
逆説~官僚の鏡:石田三成
という題で、官僚の力という切り口から
歴史講座を開催されると面白いと思います。
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、関ヶ原の戦いは、徳川家康に
とって、ギリギリの非常に危険な戦いだった
気がします。
① もし、大阪城の豊臣秀頼が出馬すれば、
豊臣恩顧の大名(福島正則など)が、西軍につく。
② 関ヶ原の戦いの中盤で、徳川家康は、本陣を
前線に移動させましたが、南宮山の吉川広家に
いくら根回しをしているといっても、非常に
危険である。(ヒトの心がどう転ぶか、わからないことを家康自身わかっている。)
③ 小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちかける。
結果的に、裏切ったから、良かったが
非常に危険。
こう考えると、この戦いは、本当にギリギリの
戦いだった気がします。
確かに興味深い企画ですね。ご助言有難うございます。
家康には勝算があったといっても、秀忠が遅参した段階で非常に危険だったと思います。
よくぞ勝ったものですよね。
こんばんは
青田です。
歴史のifですが、
石田三成が、西軍を創って、関ヶ原の戦いが
起き、
徳川家康は、負けた西軍にたいして、徹底的に取り潰しをし、その結果、100万石以上の大名は、前田氏のみになりました。
ここで、逆説ですが、
もし、石田三成が挙兵しなかったとして
関ヶ原の戦いがなかったとします。
そうすると、100万石以上の大名が多く存在することになり、徳川にとって、かなり、危うくなったのではありませんか。
上杉景勝は120万石
毛利輝元120万石
宇喜多秀家60万石
佐竹氏60万石
豊臣氏200万石
これらの大名が、恭順すると、徳川家康としても
もの凄い爆弾を抱えてしまいます。
、
もし家康にチャンスがあったとしても、正史のように彼の存命中の天下は考えにくいものがあります。
だとすれば、我が国では群雄割拠の時代が再び到来し、天下が再び乱れて多くの血が流されることになったかもしれませんね。
この事態を打開できる可能性があるのは…伊達政宗あたりでしょうか?
多くの大名を連合させることにも成功しました。
敵も多かったのは、三成の持つ美意識故かもしれません。また後世言われるように「狭量」ではなかったのかもしれません。上杉、佐竹、小西、毛利、大谷、宇喜多家などに信頼され日本を二つに割った大戦をプロデュースした手腕は加藤清正、福島正則、黒田長政らにはないものですもんね。
損な武将という感じがします。
関ヶ原の戦いは三成だけにその原因を押し付けるのは酷ですし、一度じっくりと検証してみたいですね。