奉迎場(ほうげいじょう、身分の高い人をお迎えする場所)となった護国神社(ごこくじんじゃ)の跡地(あとち)には、何と7万人もの人々が集まりました。昭和天皇はマイクを使用されて以下のお言葉を発せられました。
「このたびは皆の熱心な歓迎を受けてうれしく思う。 本日は親(した)しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠(まこと)に気の毒に思う。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献しなければならない」。
陛下の激励に対して、7万の群衆(ぐんしゅう)が一体(いったい)となって「天皇陛下万歳(ばんざい)!」と何度も何度も叫(さけ)びました。GHQの関係者は、特に天皇を恨(うら)んでいる者が多いと思っていた被爆地(ひばくち)の広島でのこの様子に驚(おどろ)くとともに恐(おそ)ろしくなりました。翌昭和23(1948)年にご巡幸は一旦(いったん)中止となりますが、多くの国民の熱意によって昭和24(1949)年に再開されました。以下は広島における陛下の御製です。
「ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えて うれしかりけり」




いつも有難うございます。
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オバrev この講演を聴きながら何度涙したことでしょう。特に広島編では大涙(ToT)
陛下の広島ご巡幸は、広島市民よりの強い要望があってのことだと聞いています。
広島市だけでなく、戦艦大和を生んだ軍港呉へも立ち寄られ、多くの方々を励まされたそうです。
戦後の復興に果たした陛下のお役割は相当なものだったと思います。
これは長い歴史の中で培われた国民との信頼関係があるからこそではないでしょうか。
GHQには理解できなかったでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この講演を聴きながら何度涙したことでしょう。特に広島編では大涙(ToT)
有難うございます。オバrevさんは広島にお住まいですから、特に印象深かったのではないでしょうか。
> 陛下の広島ご巡幸は、広島市民よりの強い要望があってのことだと聞いています。
> 広島市だけでなく、戦艦大和を生んだ軍港呉へも立ち寄られ、多くの方々を励まされたそうです。
> 戦後の復興に果たした陛下のお役割は相当なものだったと思います。
> これは長い歴史の中で培われた国民との信頼関係があるからこそではないでしょうか。
> GHQには理解できなかったでしょうね。
仰るとおりですね。
我が国における天皇と国民との絆の深さは、他国から受けた戦争の傷跡で壊れるようなものではないことを、歴史の浅いGHQに理解できるはずがありません。
本当に報道して欲しいこと
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
3月11日にテレビの報道番組で、どこの放送局も
『まだ、2年経って、復興が進んでない被災地』ばかりを報道していました。
私は、もちろん、それは、問題だと思いながら、その時、どうも違和感を感じてしまいました。
というのも、どこの放送局も
戦後、日本が
何十万人も死んで、一面、焼け野原から、どう
(広島では十七万人、東京では一回で十万人が亡くなりました。)
復活したかを報道する番組も評論家もいないかったからです。
終戦では、義捐金、補助金、助成金も全く、ありませんでした。
それでも、当時の日本人は、泣いて、恨んでいる余裕もありませんでした。
それでも、日本人は、復活しました。
もう、評論はいいので、戦後の日本人がいかに
復興したかの物語を昭和天皇の御生涯とともに
放送して欲しいと思います。
そして、多くの日本人に『絆』の意味をわかって欲しいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰ることはごもっともだと私も思います。
陛下の広島ご巡幸は、広島市民よりの強い要望があってのことだと聞いています。
広島市だけでなく、戦艦大和を生んだ軍港呉へも立ち寄られ、多くの方々を励まされたそうです。
戦後の復興に果たした陛下のお役割は相当なものだったと思います。
これは長い歴史の中で培われた国民との信頼関係があるからこそではないでしょうか。
GHQには理解できなかったでしょうね。
有難うございます。オバrevさんは広島にお住まいですから、特に印象深かったのではないでしょうか。
> 陛下の広島ご巡幸は、広島市民よりの強い要望があってのことだと聞いています。
> 広島市だけでなく、戦艦大和を生んだ軍港呉へも立ち寄られ、多くの方々を励まされたそうです。
> 戦後の復興に果たした陛下のお役割は相当なものだったと思います。
> これは長い歴史の中で培われた国民との信頼関係があるからこそではないでしょうか。
> GHQには理解できなかったでしょうね。
仰るとおりですね。
我が国における天皇と国民との絆の深さは、他国から受けた戦争の傷跡で壊れるようなものではないことを、歴史の浅いGHQに理解できるはずがありません。
おはようございます。
青田です。
3月11日にテレビの報道番組で、どこの放送局も
『まだ、2年経って、復興が進んでない被災地』ばかりを報道していました。
私は、もちろん、それは、問題だと思いながら、その時、どうも違和感を感じてしまいました。
というのも、どこの放送局も
戦後、日本が
何十万人も死んで、一面、焼け野原から、どう
(広島では十七万人、東京では一回で十万人が亡くなりました。)
復活したかを報道する番組も評論家もいないかったからです。
終戦では、義捐金、補助金、助成金も全く、ありませんでした。
それでも、当時の日本人は、泣いて、恨んでいる余裕もありませんでした。
それでも、日本人は、復活しました。
もう、評論はいいので、戦後の日本人がいかに
復興したかの物語を昭和天皇の御生涯とともに
放送して欲しいと思います。
そして、多くの日本人に『絆』の意味をわかって欲しいですね。