長州藩の動きを警戒(けいかい)した幕府は同年に再び長州征伐の兵を起こしましたが(これを第二次長州征伐といいます)、薩長同盟の影響でその動きは鈍(にぶ)く、やがて当時の将軍である徳川家茂(とくがわいえもち)が急死すると、征伐は中止になりました。
自己に逆らう長州藩を征伐できなかったことで幕府の威信(いしん)はさらに低下し、翌年(1867年)の大政奉還への流れとつながるのですが、その大きなきっかけとなったのが先述した薩長同盟であり、これを実現させたのは土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎らが中心でした。
ではなぜ土佐藩が幕末の歴史の表舞台に登場することになったのでしょうか。実は、この流れも関ヶ原の戦いが由来(ゆらい)となっているのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
黒田さんの過去記事を数件拝見させていただきました・・・が・・。どうも、いまひとつ
判りませんでした(^^A
土佐藩=長宗我部氏。
土佐藩に何か関が原の戦いで
特別な決まりごとでも
あったのでしょうか・・?
まあ、私が自力で答えまで辿り着けるまでは
3年くらい掛かってしまいそうなので
このへんで引っ込むことにします(苦笑)
応援でお
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これは申し訳ないですm(_ _)m
次回(21日)から土佐藩に関する記事が始まりますので、そちらをご参照いただければ幸いです。
またぜひお越し下さい(^^♪
オバrev う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
> 薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
なるほど、土佐は西軍に参加していた、ということですね。
そのこと自体は正解ですが、関ヶ原当時に土佐を支配していたのはどこの家か、ということがカギを握ると思いますよ(^^♪
明日(21日)の更新をお楽しみに!
黒田先生
風早 りら 坂本龍馬と中岡慎太郎
今や 大河ドラマで 大人気ですが
この時代は もっと スーパーヒーロー
だったんでしょうね
本物のカッコ良さを感じます
現代にも 早く 表れて欲しいですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 坂本龍馬と中岡慎太郎
> 今や 大河ドラマで 大人気ですが
> この時代は もっと スーパーヒーロー
> だったんでしょうね
> 本物のカッコ良さを感じます
> 現代にも 早く 表れて欲しいですね
そうですね。
国益のために動いた彼らのような本物のヒーローが現代に現れてほしいですし、もし現れれば、私たちは温かい目で応援したいと思います。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
今晩は
青田です。
よく、薩摩と長州が犬猿の仲と言われますが、
これは、八月十八日の政変からなのでしょうか。
というのも、八月十八日の政変の起こった原因として、
朝廷内の公家が長州派が大多数を占めていたことが、面白くない薩摩が、会津と組んで、起こしたことということは、それ以前から、薩摩と長州が
仲が悪かった気がします。
なぜ、仲が悪かったのか、いつから、仲が悪かったのか知りたいです。
というのも、共に、関ヶ原の負け組であり、西国の雄藩同士なら、もう少し、仲が良くても、おかしくない気がするからです。
しかも、
薩摩の西郷隆盛も、島津斉彬の下で、いろいろな藩の人間(水戸藩など)と交流がありました。
そして、西郷隆盛が島流しに合っている間に長州の桂小五郎が、いろいろな藩の人間と交流がありました。(水戸藩など)
当初、薩摩藩も攘夷論を持っていたのであれば、両者が朝廷内の権力争いを起こしたことがどうも
納得できません。
青田さんへ
黒田裕樹 薩摩藩と長州藩との仲が決定的に悪化したのは仰るとおり八月十八日の政変~禁門の変からの流れですが、両者の姿勢が「公武合体派で幕府を援けながら政治に実権を握る」「幕府を倒して新たな枠組みで政治の実権を握る」と真っ二つに分かれていましたから、犬猿の仲になるのは必至の情勢だったといえますね。
薩摩藩が武力倒幕に傾くのは西郷隆盛が藩内の実権を握ってからであり、この劇的な変化には薩英戦争の敗北における「攘夷が不可能」と悟ったことや、第一次長州征伐の成功による幕府の増徴など複雑な要件が絡み合っています。
従って、薩長同盟の流れが確定するまではそれぞれの藩が独自の動きを見せながら反目し合っていたことになりまね。
黒田さんの過去記事を数件拝見させていただきました・・・が・・。どうも、いまひとつ
判りませんでした(^^A
土佐藩=長宗我部氏。
土佐藩に何か関が原の戦いで
特別な決まりごとでも
あったのでしょうか・・?
まあ、私が自力で答えまで辿り着けるまでは
3年くらい掛かってしまいそうなので
このへんで引っ込むことにします(苦笑)
応援でお
次回(21日)から土佐藩に関する記事が始まりますので、そちらをご参照いただければ幸いです。
またぜひお越し下さい(^^♪
薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
> 薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
なるほど、土佐は西軍に参加していた、ということですね。
そのこと自体は正解ですが、関ヶ原当時に土佐を支配していたのはどこの家か、ということがカギを握ると思いますよ(^^♪
明日(21日)の更新をお楽しみに!
今や 大河ドラマで 大人気ですが
この時代は もっと スーパーヒーロー
だったんでしょうね
本物のカッコ良さを感じます
現代にも 早く 表れて欲しいですね
> 今や 大河ドラマで 大人気ですが
> この時代は もっと スーパーヒーロー
> だったんでしょうね
> 本物のカッコ良さを感じます
> 現代にも 早く 表れて欲しいですね
そうですね。
国益のために動いた彼らのような本物のヒーローが現代に現れてほしいですし、もし現れれば、私たちは温かい目で応援したいと思います。
今晩は
青田です。
よく、薩摩と長州が犬猿の仲と言われますが、
これは、八月十八日の政変からなのでしょうか。
というのも、八月十八日の政変の起こった原因として、
朝廷内の公家が長州派が大多数を占めていたことが、面白くない薩摩が、会津と組んで、起こしたことということは、それ以前から、薩摩と長州が
仲が悪かった気がします。
なぜ、仲が悪かったのか、いつから、仲が悪かったのか知りたいです。
というのも、共に、関ヶ原の負け組であり、西国の雄藩同士なら、もう少し、仲が良くても、おかしくない気がするからです。
しかも、
薩摩の西郷隆盛も、島津斉彬の下で、いろいろな藩の人間(水戸藩など)と交流がありました。
そして、西郷隆盛が島流しに合っている間に長州の桂小五郎が、いろいろな藩の人間と交流がありました。(水戸藩など)
当初、薩摩藩も攘夷論を持っていたのであれば、両者が朝廷内の権力争いを起こしたことがどうも
納得できません。
薩摩藩が武力倒幕に傾くのは西郷隆盛が藩内の実権を握ってからであり、この劇的な変化には薩英戦争の敗北における「攘夷が不可能」と悟ったことや、第一次長州征伐の成功による幕府の増徴など複雑な要件が絡み合っています。
従って、薩長同盟の流れが確定するまではそれぞれの藩が独自の動きを見せながら反目し合っていたことになりまね。