もし輝元が家臣の進言どおりに大坂城で戦っていれば、薩摩の島津家と同じように「毛利家恐るべし」と感じた家康によって本領が安堵された可能性もあったのですが、凡庸な輝元はそこまで頭が回らなかったのです。
この後も毛利家は、新たな城を交通の便の良くない山陰(さんいん)側の萩(はぎ)に築くことを強要されたり、幕府で普請(ふしん、土木工事のこと)が行われる際には自費で手伝わされたりするなど散々な目にあいましたが、毛利家の家臣たちは、自分たちの悲劇の原因を主君である輝元のせいにすることもできず、非情な処分を行った幕府を深く恨むようになっていきました。
時代が下るにつれて恨みは代々受け継がれ、太平の世の中が続く間も毛利家の長州藩では復讐(ふくしゅう)の機会を伺(うかが)いながら、江戸時代後期の19世紀に藩の財政の立て直しを行うことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
> でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
もともと120万石だったのが5分の2の37万石になったということは、収入が一気に4割になってしまったということですよね。おまけに一文にもならない労役まで課せられて、生活は相当苦しかったと思います。
ここまで貶(おとし)められると、身の危険から遠ざけられた喜びよりも、現状の苦しさを呪うばかりだったかもしれません。
でも、これほどの恨みがなければ、250年以上も復讐の機会をうかがうことは不可能だったかも…。歴史の流れは時として恐ろしくもあります。
黒田先生
風早 りら 家康という人は 本当に 頭がいいと
思いました
それが 子孫に受け継がれたなら
また 時代は大きく変わったでしょう
19世紀に藩の財政の立て直し
楽しみにしていますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康という人は 本当に 頭がいいと
> 思いました
> それが 子孫に受け継がれたなら
> また 時代は大きく変わったでしょう
> 19世紀に藩の財政の立て直し
> 楽しみにしていますね
確かに外様大名を思い通りに操る家康の策謀は見事の一言です。
設立当初の幕府がいかに優秀だったかがよく分かるエピソードです。
長州藩も薩摩藩同様、財政事情が悪化しつつありました。
幕末に活躍する藩は、いずれも同じような悩みを抱えて、なおかつ同じように問題を克服していったんですよね。
執念
オバrev 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
> しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
一人の偉大な人物によって築き上げられた地位や名誉は、その後の一人の凡庸な人物によってすべてが失われてしまう…。平家並みの栄枯盛衰ですね(´・ω・`)
> ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
> それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
人間の感情のうち、特に憎しみは世代を超えて受け継がれますからね。それが執念と化してしまうあたりが、人間の業(ごう)の深さを実感します。
ぴーち こんばんは!
そうですか。
更に詳しい内情をお聞きすると
家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > そうですか。
> 更に詳しい内情をお聞きすると
> 家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
> しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
> 何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
諸悪の根源(?)は大坂城を無傷で明け渡したことですから、その際に身体を張ってでも止める家臣がいなかったことが残念ですね(いたかもしれませんが)。
家臣の心情を思うと胸が詰まる話ですが、これは毛利家に限った話でもないところが時代の厳しさを感じます。
毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
応援凸
> でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
もともと120万石だったのが5分の2の37万石になったということは、収入が一気に4割になってしまったということですよね。おまけに一文にもならない労役まで課せられて、生活は相当苦しかったと思います。
ここまで貶(おとし)められると、身の危険から遠ざけられた喜びよりも、現状の苦しさを呪うばかりだったかもしれません。
でも、これほどの恨みがなければ、250年以上も復讐の機会をうかがうことは不可能だったかも…。歴史の流れは時として恐ろしくもあります。
思いました
それが 子孫に受け継がれたなら
また 時代は大きく変わったでしょう
19世紀に藩の財政の立て直し
楽しみにしていますね
> 思いました
> それが 子孫に受け継がれたなら
> また 時代は大きく変わったでしょう
> 19世紀に藩の財政の立て直し
> 楽しみにしていますね
確かに外様大名を思い通りに操る家康の策謀は見事の一言です。
設立当初の幕府がいかに優秀だったかがよく分かるエピソードです。
長州藩も薩摩藩同様、財政事情が悪化しつつありました。
幕末に活躍する藩は、いずれも同じような悩みを抱えて、なおかつ同じように問題を克服していったんですよね。
しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
> しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
一人の偉大な人物によって築き上げられた地位や名誉は、その後の一人の凡庸な人物によってすべてが失われてしまう…。平家並みの栄枯盛衰ですね(´・ω・`)
> ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
> それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
人間の感情のうち、特に憎しみは世代を超えて受け継がれますからね。それが執念と化してしまうあたりが、人間の業(ごう)の深さを実感します。
そうですか。
更に詳しい内情をお聞きすると
家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
応援凸
> 更に詳しい内情をお聞きすると
> 家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
> しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
> 何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
諸悪の根源(?)は大坂城を無傷で明け渡したことですから、その際に身体を張ってでも止める家臣がいなかったことが残念ですね(いたかもしれませんが)。
家臣の心情を思うと胸が詰まる話ですが、これは毛利家に限った話でもないところが時代の厳しさを感じます。