島津家は、戦国時代にはあわや九州全土を統一するかの勢いだったのですが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によってその野望は打ち砕(くだ)かれ、現在の鹿児島県に相当する薩摩・大隅(おおすみ)の2ヵ国を中心とする領地に閉じ込(こ)められました。
秀吉の死後、関ヶ原(せきがはら)の戦いでは西軍に属(ぞく)して、敗戦後は中央突破を強行し、最後にはわずかな手勢(てぜい)となりながらも無事に帰国して、その後も徹底抗戦(てっていこうせん)の意思を示したことによって、島津家の武力を恐れた徳川家康(とくがわいえやす)から所領を安堵されたのですが、実は島津家は、始めは家康に味方しようとしていました。
関ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)として伏見城(ふしみじょう)の戦いがありますが、島津家はこの際に伏見城に入り、城主の鳥居元忠(とりいもとただ)を助けるつもりでした。しかし、事前の根回しが不足していたため、裏切りを恐れた鳥居元忠から拒否されてしまったのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
風早 りら 今回の講座で 薩摩藩が
徳川幕府の倒幕を 企てたのは
幕末のことであっても
そのずっと 以前から 伏線は
あったのだと 実感しました
幕末のお話は興味深いです
楽しみです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の講座で 薩摩藩が
> 徳川幕府の倒幕を 企てたのは
> 幕末のことであっても
> そのずっと 以前から 伏線は
> あったのだと 実感しました
> 幕末のお話は興味深いです
> 楽しみです
仰るとおりです。
幕末になって急に討幕を企てたわけではなく、長い時間をかけて雌伏していたんですよね。
この流れを理解できて、初めて薩摩藩の真意が見えてくると考えております。
ぴーち こんばんは!
守護→戦国→外様。
大名にも段階があり、様々な種類が
あったのですね!
(それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 守護→戦国→外様。
> 大名にも段階があり、様々な種類が
> あったのですね!
> (それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
島津家の場合は、守護大名がそのまま戦国大名になった数少ない例ですね。それだけに歴史もあり、プライドも高かった。そして、その流れが関ヶ原で道を誤ることになってしまうんですよね…(´・ω・`)
サクラ ああ! 関が原前夜の事件って、倒幕の伏線だったんですか!
私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
何しろ、250年の隔たりがあったので。
幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > ああ! 関が原前夜の事件って、倒幕の伏線だったんですか!
> 私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
> 何しろ、250年の隔たりがあったので。
そうなんです。
歴史の流れは意外なところでつながっています。250年という一見長い年月も、歴史という名の大河の流れではほんのひと時でしかありません。
> 幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
崩れる時はあっけないものですよね。ただ、幕府の崩壊は「自己責任」に原因があるともいえます。いずれ明らかにしますよ。
ねずきち 黒田さん、こんばんは。
リンク、しておきました^^
今後ともよろしくお願いします。
ねずきちさんへ
黒田裕樹 > 黒田さん、こんばんは。
> リンク、しておきました^^
> 今後ともよろしくお願いします。
早速のお聞き届け、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
mochimochi こういう話は初耳です。
続きが楽しみです
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > こういう話は初耳です。
> 続きが楽しみです
有難うございます。
薩摩藩の話はこれからも続きますので、どうぞお楽しみ下さい。
恐るべき島津4兄弟
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦国時代の島津家は、島津4兄弟が有名ですよね。
島津義久は、仁徳
島津義弘は、猛将
島津歳久は、智将
島津家久は、戦術に長けている。
豊臣秀吉の九州征伐まで、この4兄弟は、
鉄の団結で、九州統一の一歩手前まで行きました。
九州征伐で、三男の歳久、四男の家久が
死にましたが、
もし、関ヶ原の戦いまでにこの2兄弟が生き残っていたら、
島津の中央での展開は、違ったと思います。
黒田先生は、どう思われますか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに島津四兄弟の結束は固かったですから、全員が長生きしていたら分からなかったかもしれませんね。
しかし、その四兄弟のうち二人が亡くなったのは秀吉に原因がありました。家康は、いわば秀吉のおかげで島津家を抑えることが可能になったともいえるのが、歴史の不思議なところです。
九州征伐
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
考えてみれば、島津の強さは、戦国時代でも
屈指のものだったように思います。
① 九州統一の一歩手前まで、進んでいた。
(秀吉の九州征伐まで)
② 秀吉は、小田原征伐、東北仕置き
よりも、先に九州征伐を行っている。
秀吉が、関東・東北よりも、西日本に先に意識
を優先させたのは、それだけ、経済的にも
魅力があったのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 当時の文化の違いなどを考えれば、確かに九州の方が魅力がありましたね。
それと、九州を早めに征伐したことで、秀吉がカトリックやヨーロッパ諸国による侵略の野望にいち早く気づいて、その後の展開が大きく変わることにもなりました。
歴史の結果は、様々な横のつながりを見せています。
島津義弘
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
関ヶ原の戦いの
島津隊の敵中突破というのを、あっさりと
聞いて、考えていましたが、
関ヶ原の戦い時の島津隊の状況を考えると
もの凄いことですね。
◆ 島津義弘の年齢66歳
人間50年の時代です。ちなみに、島津義弘は
85歳まで、生きています。
常に最前線で、戦ってきたことを考えるともの凄い生命力です。
◆ 関ヶ原の戦い時における島津の動員兵力
1500人
それにしても、60万石の大名にしては、少なすぎます。
(兄の島津義久との考え方の違いが原因かもしれませんが。)
これだけの状況で、東軍の家康の本陣を通って
逃げるというのは、尋常ではありません。
普通なら、敵中突破ではなく、宇喜多秀家などのように背後の山に逃げるはずです。
恐るべき、島津ですね。
これは、家康ではなくても、トラウマになりますね。
青田さんへ その3
黒田裕樹 兵力の少なさは、この頃の島津家が御家騒動で内部分裂していた影響もあったようです。
しかしながら義弘が生きて戻ったことで島津家本来の兵力が健在ということになり、家康が本領を安堵せざるをあ無くなったという結果にもつながったようです。
確かに恐ろしいですね。
徳川幕府の倒幕を 企てたのは
幕末のことであっても
そのずっと 以前から 伏線は
あったのだと 実感しました
幕末のお話は興味深いです
楽しみです
> 徳川幕府の倒幕を 企てたのは
> 幕末のことであっても
> そのずっと 以前から 伏線は
> あったのだと 実感しました
> 幕末のお話は興味深いです
> 楽しみです
仰るとおりです。
幕末になって急に討幕を企てたわけではなく、長い時間をかけて雌伏していたんですよね。
この流れを理解できて、初めて薩摩藩の真意が見えてくると考えております。
守護→戦国→外様。
大名にも段階があり、様々な種類が
あったのですね!
(それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
応援凸
> 大名にも段階があり、様々な種類が
> あったのですね!
> (それすらもよく理解していませんでした^^;)今回は島津家が出世していった流れの概要を掴むことが出来、勉強になりました!
島津家の場合は、守護大名がそのまま戦国大名になった数少ない例ですね。それだけに歴史もあり、プライドも高かった。そして、その流れが関ヶ原で道を誤ることになってしまうんですよね…(´・ω・`)
私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
何しろ、250年の隔たりがあったので。
幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
> 私にとっては、全く関係のない二つの事件とばかり思っていました。
> 何しろ、250年の隔たりがあったので。
そうなんです。
歴史の流れは意外なところでつながっています。250年という一見長い年月も、歴史という名の大河の流れではほんのひと時でしかありません。
> 幕府は必死になって外様やら譜代やらを配置したのに、外様から崩れていったんですね。
崩れる時はあっけないものですよね。ただ、幕府の崩壊は「自己責任」に原因があるともいえます。いずれ明らかにしますよ。
リンク、しておきました^^
今後ともよろしくお願いします。
> リンク、しておきました^^
> 今後ともよろしくお願いします。
早速のお聞き届け、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
続きが楽しみです
> 続きが楽しみです
有難うございます。
薩摩藩の話はこれからも続きますので、どうぞお楽しみ下さい。
こんばんは
青田です。
戦国時代の島津家は、島津4兄弟が有名ですよね。
島津義久は、仁徳
島津義弘は、猛将
島津歳久は、智将
島津家久は、戦術に長けている。
豊臣秀吉の九州征伐まで、この4兄弟は、
鉄の団結で、九州統一の一歩手前まで行きました。
九州征伐で、三男の歳久、四男の家久が
死にましたが、
もし、関ヶ原の戦いまでにこの2兄弟が生き残っていたら、
島津の中央での展開は、違ったと思います。
黒田先生は、どう思われますか。
しかし、その四兄弟のうち二人が亡くなったのは秀吉に原因がありました。家康は、いわば秀吉のおかげで島津家を抑えることが可能になったともいえるのが、歴史の不思議なところです。
こんばんは
青田です。
考えてみれば、島津の強さは、戦国時代でも
屈指のものだったように思います。
① 九州統一の一歩手前まで、進んでいた。
(秀吉の九州征伐まで)
② 秀吉は、小田原征伐、東北仕置き
よりも、先に九州征伐を行っている。
秀吉が、関東・東北よりも、西日本に先に意識
を優先させたのは、それだけ、経済的にも
魅力があったのかもしれませんね。
それと、九州を早めに征伐したことで、秀吉がカトリックやヨーロッパ諸国による侵略の野望にいち早く気づいて、その後の展開が大きく変わることにもなりました。
歴史の結果は、様々な横のつながりを見せています。
こんにちは
青田です。
関ヶ原の戦いの
島津隊の敵中突破というのを、あっさりと
聞いて、考えていましたが、
関ヶ原の戦い時の島津隊の状況を考えると
もの凄いことですね。
◆ 島津義弘の年齢66歳
人間50年の時代です。ちなみに、島津義弘は
85歳まで、生きています。
常に最前線で、戦ってきたことを考えるともの凄い生命力です。
◆ 関ヶ原の戦い時における島津の動員兵力
1500人
それにしても、60万石の大名にしては、少なすぎます。
(兄の島津義久との考え方の違いが原因かもしれませんが。)
これだけの状況で、東軍の家康の本陣を通って
逃げるというのは、尋常ではありません。
普通なら、敵中突破ではなく、宇喜多秀家などのように背後の山に逃げるはずです。
恐るべき、島津ですね。
これは、家康ではなくても、トラウマになりますね。
しかしながら義弘が生きて戻ったことで島津家本来の兵力が健在ということになり、家康が本領を安堵せざるをあ無くなったという結果にもつながったようです。
確かに恐ろしいですね。