また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか、儒教(じゅきょう)を伝えました。さらに6世紀半ばには仏教(ぶっきょう)も百済から伝えられるなど、我が国の思想や倫理、道徳といった精神的な面でも大きな影響をもたらしました。
当時の我が国は、文化の面では確かに大陸や朝鮮半島に一歩先を譲っていましたが、そんな遅れを取り戻すかのように彼らの文化を積極的に受け入れようという姿勢が目立ちました。こういった先人の努力が、やがて時が経つと我が国独自の文化が花開く原動力になったのは間違いないでしょう。
尚、仏教が我が国に公式に伝来した年については、538年とする説と、552年とする説があります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
もう既にこの頃から、日本人気質というべき、
勤勉さや、真面目さというのがあった訳ですね。
こういう祖先様が居たお陰で、
こんな国土も小さく資源も乏しい国が、先進国として
堂々としていられるんですね^^
応援させてくださいね!
またお邪魔します♪
海豚 無事(たぶん)に帰ってまいりましたっ。
コメありがとうございました♪
下の記事についてですが、
ついにワカタケルさん(笑)が出てきましたねぇ。
さすらい こんばんは。
聖徳太子の頃ですよね?
これからお話されるかもしれませんが
十七条憲法で史記に触れる部分がありますよね。
その史記に医学、易学、暦学、気学が含まれていて
それをどう解釈したかは謎のままです。
果たして当時の担当者が理解したかどうか(笑)
ピラミッドの謎を解明するのと同じで
我々の間でもそれはぼやけてますがね。
まあ、いつ医学が伝来したかは
それほど重要ではありませんし。
実際に使える医学になったのは
ずっとずっと後のことですよね。
いえ、インフルエンザで
これだけ騒いでいる現代ですら医学のことなんて
わかってないのかもしれません(笑)
応援♪
智里 どうして仏教がこれだけ広がったんでしょうね?
それまで日本人は神道を守ってきてたのに・・・。
やはり大陸に文化に染まったのでしょうか?
それとも聖徳太子の力が強かったのかな?
ま、いまではすっかり共存した存在ですけどね。
bunyan こんばんは~
我が国独自の文化の礎になったことは間違いないと思います。
ただ遣唐使がなくなってからが本当の我が国独自の文化が花開き始めたのじゃないでしょうか。
朝鮮半島からの影響だけでなく、隋や唐の影響をかなり受けたと思うのですけど、違いますかしら?
ヒロキ 仏教伝来以前にも、司馬達等という人が私的に信仰していましたね!
でもこのときの仏教は政治方面に利用されてしまうんですよねー(>_<)
こんばんは
ことぶきのこめや 漢字を受け入れ、平仮名を発明して、独自の文化を作り上げた日本人は本当にすごいですよね!
音読みと訓読みなど、先人達の英明さには、本当に頭が下がります!
ぴーち様
黒田裕樹 自国の文化が他国より遅れていると分かると、素直に教わって少しでも追いつこうとする努力は我が国のお家芸であり、古代からのDNAなんですね。
そんな先人のたゆまぬ努力の延長線上に我々がいるんだということを常に自覚したいものです。
海豚様
黒田裕樹 お帰りなさい!\(^o^)/
楽しかったですか?
仰るとおり、雄略天皇こと「ワカタケルさん」が登場しましたよ(笑)。
初めて聞くと、結構インパクトのある名前ですよね。
これからも歴史上の人物が次々と出てきますのでお楽しみに!
さすらい様
黒田裕樹 聖徳太子は6世紀末から7世紀にかけて活躍しますのでもう少し前になりますが、仰るとおり医学は奥が深いですよね。
我々が知らないことはまだまだたくさんあるからこそ、学問もまた成り立つと思います。
応援有難うございます。
初歩的な質問
オバrev 大変初歩的な質問ですが、五経博士って、個人名なんでしょうか、それともそういう職種があったんでしょうか?
それと五経というからには、五つの分野を極めていたと単純に思うのですが、医学・易学・暦学・儒教だと、4つです。もう一つは??
智里様
黒田裕樹 いずれ講座の中で紹介しますが、仏教は当初はなかなか受け入れられず、賛成派と反対派で激しく争いました。
その後の仏教も、どちらかといえば「国家のための宗教」であり、行基のような例外を除けば、一般大衆とは距離を置いていました。
そんな「外来の宗教」が我が国に本格的に根付いたのは平安時代になってからです。
その頃には、仏教は我が国になじむように良い意味で「変質」し、現代の共存体制につながっていくのです。
bunyan様
黒田裕樹 仰るとおり、我が国独自の文化が本格的に花開いたのは、遣唐使の廃止後の国風文化からです。
しかし、何事にもいえることだと思いますが、ひとつの結果が出るまでには、必ず過程というものが存在します。
自分にないものがあれば、まずは他人を真似ることから始めて、やがて他人の真似を自分のものにできてこそ、初めて独創性が見出されると思うのです。
この時代はまだまだ基礎固めにしか過ぎませんが、ここでしっかりと足元を固めたからこそ、先の発展が見えてくると考えております。
ヒロキ様
黒田裕樹 仰ることは、全くそのとおりです。
仏教が我が国に根付くまでの生みの苦しみなのかもしれませんね。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 漢字という未知の分野に足を踏み入れたときの祖先の衝撃は、おそらく大きかったであろうと推察します。
しかし、漢字の音を借りて記録に残すことを思いつき、そこから万葉仮名に発展し、さらにはひらがな・カタカナを発明し、音読みのほかに我が国の読み方に近い訓読みまで…。
仰るとおり、我が祖先の英明さは素晴らしいものがあると思います。
オバrev様
黒田裕樹 「五経博士」は、本来は儒教の基本経典である「詩経(詩篇)・書経(帝王の演説)・礼経(秩序)・易経(占法)・春秋経(歴史書)」を教える、中国古代の学官の名前です。
本文のとおり、6世紀になると百済の五経博士が断続的に我が国に来日し、様々な知識を伝えたのです。
mee; 日本人の努力すごいですよね~
きっと、そのときなりに反対意見もあっただろうし、苦労する人もいただろうに
美しい日本文化があるのも、今があるのも、古来より人が生きていたからなんですね~
mee;様
黒田裕樹 そうですね。誰しもが素直に異文化を受け入れられるはずがありませんから、先人の苦労は大変だったと思います。
それだけに、受け入れを決断した祖先の人々の「先見の明」には頭が下がる思いがしますね。
管理人のみ閲覧できます
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文化の受容について
半杭正幸 朝鮮半島からは確かに文化の伝搬は有りましたが、それは倭人達が必要に応じて、必要なものを取捨選択して受容したのです。決して一方的なものでは有りませんでした。如何なものでしょうか。
とまと こんにちは(^o^)
いつもご訪問&コメントをありがとうございます。
なかなか、コメントが出来なくて、申し訳ありません。
おわびのぽち~
半杭正幸様
黒田裕樹 確かに我が国の祖先の人々は、積極的ではあるものの、諸外国からすべてを吸収した訳ではないと思います。
何でも無条件で受け入れるという姿勢は、ひとつ間違えれば何の進歩もない「コピー」になりかねません。
しかし、我が国の文化は、後には「国風文化」と呼ばれるまでに成熟します。
ということは、自分の頭で考えて「取捨選択して受容した」半杭様のお考えどおりである、との結論にもなりますね。
貴重なご意見、有難うございました。
とまと様
黒田裕樹 こちらこそ、最近はコメントが滞りがちで申し訳ないです。せめて応援だけは欠かさず行わせていただいておりますので、今後ともよろしくお願い致します!
こみこみ 私、小学六年生ねんですけど
いまここのところを勉強してるので
勉強になりました
こみこみさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
高校の日本史を想定して文章を書いておりますので小学校高学年には内容が若干難しいかもしれませんが、今のうちから理解しておけば間違いなく将来の役に立つことでしょう。
勉強、頑張って下さいね。
もう既にこの頃から、日本人気質というべき、
勤勉さや、真面目さというのがあった訳ですね。
こういう祖先様が居たお陰で、
こんな国土も小さく資源も乏しい国が、先進国として
堂々としていられるんですね^^
応援させてくださいね!
またお邪魔します♪
コメありがとうございました♪
下の記事についてですが、
ついにワカタケルさん(笑)が出てきましたねぇ。
聖徳太子の頃ですよね?
これからお話されるかもしれませんが
十七条憲法で史記に触れる部分がありますよね。
その史記に医学、易学、暦学、気学が含まれていて
それをどう解釈したかは謎のままです。
果たして当時の担当者が理解したかどうか(笑)
ピラミッドの謎を解明するのと同じで
我々の間でもそれはぼやけてますがね。
まあ、いつ医学が伝来したかは
それほど重要ではありませんし。
実際に使える医学になったのは
ずっとずっと後のことですよね。
いえ、インフルエンザで
これだけ騒いでいる現代ですら医学のことなんて
わかってないのかもしれません(笑)
応援♪
それまで日本人は神道を守ってきてたのに・・・。
やはり大陸に文化に染まったのでしょうか?
それとも聖徳太子の力が強かったのかな?
ま、いまではすっかり共存した存在ですけどね。
我が国独自の文化の礎になったことは間違いないと思います。
ただ遣唐使がなくなってからが本当の我が国独自の文化が花開き始めたのじゃないでしょうか。
朝鮮半島からの影響だけでなく、隋や唐の影響をかなり受けたと思うのですけど、違いますかしら?
でもこのときの仏教は政治方面に利用されてしまうんですよねー(>_<)
音読みと訓読みなど、先人達の英明さには、本当に頭が下がります!
そんな先人のたゆまぬ努力の延長線上に我々がいるんだということを常に自覚したいものです。
楽しかったですか?
仰るとおり、雄略天皇こと「ワカタケルさん」が登場しましたよ(笑)。
初めて聞くと、結構インパクトのある名前ですよね。
これからも歴史上の人物が次々と出てきますのでお楽しみに!
我々が知らないことはまだまだたくさんあるからこそ、学問もまた成り立つと思います。
応援有難うございます。
それと五経というからには、五つの分野を極めていたと単純に思うのですが、医学・易学・暦学・儒教だと、4つです。もう一つは??
その後の仏教も、どちらかといえば「国家のための宗教」であり、行基のような例外を除けば、一般大衆とは距離を置いていました。
そんな「外来の宗教」が我が国に本格的に根付いたのは平安時代になってからです。
その頃には、仏教は我が国になじむように良い意味で「変質」し、現代の共存体制につながっていくのです。
しかし、何事にもいえることだと思いますが、ひとつの結果が出るまでには、必ず過程というものが存在します。
自分にないものがあれば、まずは他人を真似ることから始めて、やがて他人の真似を自分のものにできてこそ、初めて独創性が見出されると思うのです。
この時代はまだまだ基礎固めにしか過ぎませんが、ここでしっかりと足元を固めたからこそ、先の発展が見えてくると考えております。
仏教が我が国に根付くまでの生みの苦しみなのかもしれませんね。
しかし、漢字の音を借りて記録に残すことを思いつき、そこから万葉仮名に発展し、さらにはひらがな・カタカナを発明し、音読みのほかに我が国の読み方に近い訓読みまで…。
仰るとおり、我が祖先の英明さは素晴らしいものがあると思います。
本文のとおり、6世紀になると百済の五経博士が断続的に我が国に来日し、様々な知識を伝えたのです。
きっと、そのときなりに反対意見もあっただろうし、苦労する人もいただろうに
美しい日本文化があるのも、今があるのも、古来より人が生きていたからなんですね~
それだけに、受け入れを決断した祖先の人々の「先見の明」には頭が下がる思いがしますね。
いつもご訪問&コメントをありがとうございます。
なかなか、コメントが出来なくて、申し訳ありません。
おわびのぽち~
何でも無条件で受け入れるという姿勢は、ひとつ間違えれば何の進歩もない「コピー」になりかねません。
しかし、我が国の文化は、後には「国風文化」と呼ばれるまでに成熟します。
ということは、自分の頭で考えて「取捨選択して受容した」半杭様のお考えどおりである、との結論にもなりますね。
貴重なご意見、有難うございました。
いまここのところを勉強してるので
勉強になりました
高校の日本史を想定して文章を書いておりますので小学校高学年には内容が若干難しいかもしれませんが、今のうちから理解しておけば間違いなく将来の役に立つことでしょう。
勉強、頑張って下さいね。