こうして信長が京に釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。
特に尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれてしまいました。京を動けぬ信長は、可愛い弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかったのです。
宗教勢力によるこれらの無情な仕打ちに対して、信長は内心で怒り狂いながらも、じっと耐え続けました。そうこうしているうちに1570年も年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦(わぼく)が成立して、信長はやっとの思いで岐阜に戻ることができました。
講和が成立した背景には、兵農分離していない朝倉軍の都合もありました。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。こんなところにも信長との差がありました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長の地の利を活かした
今まで作戦が 実を結んだわけですよね
信長の弟のことは 知りませんでした
信長ファンの友達に言いますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長の地の利を活かした
> 今まで作戦が 実を結んだわけですよね
> 信長の弟のことは 知りませんでした
> 信長ファンの友達に言いますね
ピンチの中にもチャンスあり、といいますからね。
それにしても大事な弟まで奪われて、宗教勢力への信長の恨みは相当なものだったことでしょう。
いずれその怒りが爆発する日がやってきます。
ぴーち こんばんは!
自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
地方によって気候による不便さが生じるので、
やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
助けに行きたくても行くことができない。
仰るとおり、非常につらかったと思います…。
> 地方によって気候による不便さが生じるので、
> やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
冬の間に身動きができないというのはやはり大きなハンデですね。
越前の城下町である一乗谷も規模が小さかった分、成長に限界がありましたし。
今まで作戦が 実を結んだわけですよね
信長の弟のことは 知りませんでした
信長ファンの友達に言いますね
> 今まで作戦が 実を結んだわけですよね
> 信長の弟のことは 知りませんでした
> 信長ファンの友達に言いますね
ピンチの中にもチャンスあり、といいますからね。
それにしても大事な弟まで奪われて、宗教勢力への信長の恨みは相当なものだったことでしょう。
いずれその怒りが爆発する日がやってきます。
自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
地方によって気候による不便さが生じるので、
やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
応援凸
助けに行きたくても行くことができない。
仰るとおり、非常につらかったと思います…。
> 地方によって気候による不便さが生じるので、
> やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
冬の間に身動きができないというのはやはり大きなハンデですね。
越前の城下町である一乗谷も規模が小さかった分、成長に限界がありましたし。