すなわち、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽(あしがる)に至(いた)るまでに半(なか)ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、その家族を含めて少なくとも数万の人口が集中することになりますから、あっという間に岐阜は我が国有数の都市となりました。
人口が多ければ、衣食住において商売が常に成り立ちますから、常設(じょうせつ)の店舗(てんぽ)もすぐに定着しますし、信長は楽市・楽座の政策を行っていますから、多額の税を払う必要もありません。さらに、家臣が城下に定住しているということは領民の安全が保障(ほしょう)されるだけでなく、敵が攻めてきた場合にもすぐに戦えるという防衛上のメリットもありますから、まさに良いことづくめと言えますね。
信長のこうした天才的な発想によって、経済力も軍事力も高められていったのですが、その背景には「兵農分離(へいのうぶんり)」や「楽市・楽座」という柔軟(じゅうなん)な政策がありました。それにしても、信長はなぜこのような政策を思いついたのでしょうか。
実は、信長は「敵」ともいえる対象から、その長所と短所を学んでいたのです。




いつも有難うございます。
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Kei 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
~追伸
黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
これからもよろしくお願いいたします。Kei
Keiさんへ
黒田裕樹 > 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
素人目には行き当たりばったりであっても、裏ではしっかりと計算し尽くされている。
信長の天才的な発想とともに、その実行力は群を抜いていますね。歴史に名を残す人物というのはやはり素晴らしいです。
> ~追伸
> 黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
> これからもよろしくお願いいたします。Kei
リンクは喜んでお受けしますし、こちらからも相互リンクさせていただきますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
> まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
敵を知ることが勝利につながることは、まさしく仰るとおりですね。
果たして信長はどんな敵から学んだのでしょうか?
次回(3日)をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 楽市・楽座
学校で勉強した事思いだしました
でも その時は興味が 湧きませんでした
黒田先生の講座で ワクワクしています
信長の頭脳は相当なものですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 楽市・楽座
> 学校で勉強した事思いだしました
> でも その時は興味が 湧きませんでした
> 黒田先生の講座で ワクワクしています
> 信長の頭脳は相当なものですね
有難うございます。
信長の知能の高さや頭の回転力は凄まじいものがあると思います。
加えて彼は学習能力がきわめて高かったとも考えられるのですが、そのあたりを次回(3日)の更新で明らかにしていきたいと思います。
忍耐力のある織田信長
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
織田信長は、スグにキレる短期なイメージを
持っていましたが、織田信長は、徳川家康に
勝るとも劣らない、『忍耐力』のヒトだったように思います。
① 美濃攻めに8年間掛っている。
しかも、その手法は、地味な調略。
② 石山本願寺との戦いには、10年間掛っている。
③ 決して、大きな戦いに勝っても、深追いしない。
◆長篠の戦い(1575年)→武田征伐(11582年)長篠の戦いの7年後に決着。
◆姉川の戦い(1570年)→小谷城の戦い(1573年)姉川の戦いの3年後に決着。
常に、織田信長は、長期戦を想定しています。
短期的な戦いでは、武田信玄、上杉謙信には
勝てないかもしれませんが、長期戦を制する
ことが、織田信長の根底にあったのですね。
それを実現させる施策が、兵農分離につながっているのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長は「キレれば怖い」というイメージとは裏腹に、目標を達成するためには実に忍耐強く辛抱しています。
そして、このような兵法を実現させるためにも、仰るように「兵農分離」は欠かすことができません。
信長の発想は「必要は発明の母」の一面もありますね。
~追伸
黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
これからもよろしくお願いいたします。Kei
素人目には行き当たりばったりであっても、裏ではしっかりと計算し尽くされている。
信長の天才的な発想とともに、その実行力は群を抜いていますね。歴史に名を残す人物というのはやはり素晴らしいです。
> ~追伸
> 黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
> これからもよろしくお願いいたします。Kei
リンクは喜んでお受けしますし、こちらからも相互リンクさせていただきますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
応援凸
> まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
敵を知ることが勝利につながることは、まさしく仰るとおりですね。
果たして信長はどんな敵から学んだのでしょうか?
次回(3日)をお楽しみに!
学校で勉強した事思いだしました
でも その時は興味が 湧きませんでした
黒田先生の講座で ワクワクしています
信長の頭脳は相当なものですね
> 学校で勉強した事思いだしました
> でも その時は興味が 湧きませんでした
> 黒田先生の講座で ワクワクしています
> 信長の頭脳は相当なものですね
有難うございます。
信長の知能の高さや頭の回転力は凄まじいものがあると思います。
加えて彼は学習能力がきわめて高かったとも考えられるのですが、そのあたりを次回(3日)の更新で明らかにしていきたいと思います。
こんばんは
青田です。
織田信長は、スグにキレる短期なイメージを
持っていましたが、織田信長は、徳川家康に
勝るとも劣らない、『忍耐力』のヒトだったように思います。
① 美濃攻めに8年間掛っている。
しかも、その手法は、地味な調略。
② 石山本願寺との戦いには、10年間掛っている。
③ 決して、大きな戦いに勝っても、深追いしない。
◆長篠の戦い(1575年)→武田征伐(11582年)長篠の戦いの7年後に決着。
◆姉川の戦い(1570年)→小谷城の戦い(1573年)姉川の戦いの3年後に決着。
常に、織田信長は、長期戦を想定しています。
短期的な戦いでは、武田信玄、上杉謙信には
勝てないかもしれませんが、長期戦を制する
ことが、織田信長の根底にあったのですね。
それを実現させる施策が、兵農分離につながっているのでしょうね。
そして、このような兵法を実現させるためにも、仰るように「兵農分離」は欠かすことができません。
信長の発想は「必要は発明の母」の一面もありますね。