前回(第97回)の講座で紹介したとおり、天智(てんじ)天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇は、藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)らの協力のもとで律令政治の再建を目指されましたが、天応(てんおう)元(781)年に子の桓武(かんむ)天皇に譲位されました。
桓武天皇は道鏡(どうきょう)による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、それまでの都であった平城京(へいじょうきょう)から心機一転をはかるため、延暦(えんりゃく)3(784)年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都(せんと)されました。
長岡京の造営には天皇の側近であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、延暦4(785)年に種継が造営中に矢で射(い)られて暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺の背景には実行犯の他に大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)などの存在が疑われ、関係者が処罰されました。
早良親王も廃太子(はいたいし、皇太子などの皇嗣や最優先王位継承者を廃すること)のうえに淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島など)に配流(はいる、流罪に処すること)となりました。親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。
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