隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を度外視した無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のであり、また、その事実を聖徳太子が冷静に見抜いていました。
当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。
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