朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで527年に反乱を起こさせました。いわゆる「磐井の乱」のことであり、鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村の意見によって任那西部の四郡を隣国で朝廷との友好国であった百済が支配することを認めました。
支配地が減ってしまった任那は次第に衰退し、562年にはついに新羅に滅ぼされました。これによって我が国は朝鮮半島における拠点を失いましたが、百済との友好関係は維持し続けました。
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