群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしました。
後期の古墳内部の石室は、従来の竪穴式石室にかわって5世紀の中頃から大陸の影響を受けた横穴式石室がつくられるようになり、6世紀には全国的に広がりました。
竪穴式石室が遺体を埋葬して古墳に封じ込める意味があったのに対して、横穴式石室は遺体を安置する玄室(げんしつ)が羨道(せんどう)によって外部につながっており、いつでも追葬(ついそう)できる仕組みになっていました。
これは、竪穴式石室がひとりの人間を埋葬するための墓の性格をもっていたのに対し、横穴式石室が後から亡くなった者をあわせて葬(ほうむ)ることができるという家族墓(かぞくぼ)的な性格を持っていたこととされています。
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