14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。なお、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の15代の応神天皇であり、応神天皇の子が先述した16代の仁徳天皇です。
大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。ちなみに、仁徳天皇の子である17代の履中(りちゅう)天皇の陵(みささぎ)は「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」とも呼ばれていますが、全長が約365mもあり、全国第3位の規模を誇る巨大古墳です。
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