なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」を由来とするという考えもあります。
前漢のあとを継いだ後漢(ごかん)の歴史を記した「後漢書」東夷伝(「ごかんじょ」とういでん)には、紀元57年に倭の奴国(なこく)王が後漢の首都である洛陽(らくよう)に使者を遣(つか)わして、当時の光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったことが、続いて107年には倭国王が生口(せいこう)160人を安帝(あんてい)に献上したことが記されています。なお、生口とは奴隷(どれい)を意味していると考えられています。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)から奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
この時期にチャイナとの外交が増加したのは、北九州から西日本の各地に分立した小国の統一者たちが、チャイナの支援をとりつけることで周辺の諸国よりも優位に立とうとしたからだと考えられており、現代に残る弥生時代の埋葬施設からチャイナの鏡や武器が発見されているのも、こうした事情を物語っていると思われます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。