わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員に対する大虐殺となりました。
空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体もそのままになっていました。陛下(へいか)は被災者をお励ましになりながら、東京の変わり果てた姿に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻の猶予(ゆうよ)もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭内閣の総辞職後に、次の内閣総理大臣として、以前に侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)を務めた鈴木貫太郎(すずきかんたろう)を指名されました。ご自身との縁(えにし)が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
なお、東京大空襲の日を3月10日としたのは、この日が陸軍記念日であったからだという説があります。また、こうしたB29による焼夷弾を使用した集中爆撃は、東京だけでなく大阪など全国の60余りの都市がその被害を受けました。これを「本土爆撃」といいます。
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