桃山文化の頃は庶民の生活にも変化が現れました。農村で昔ながらの萱葺(かやぶき)屋根の平屋(ひらや)が普通であったのに対して、京都や大坂などの都市では二階建ての家や瓦葺(かわらぶき)の家が見られるようになりました。
衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(はかま)を身に着けることが多く、簡単な礼服(れいふく)として肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いる一方で、女子は小袖の着流しが普通になり、また男女ともに結髪(けっぱつ)するようになりました。食生活が朝夕の二食から三食になり、強飯(こわめし、米を蒸して飯にしたもので、赤飯などの「おこわ」をさす)に代わって炊飯(すいはん、米に水を加えて柔らかく煮たもの)が普及し始めたのもこの頃です。
この時代に盛んになった南蛮(なんばん)貿易によって、宣教師はキリスト教(=カトリック)の布教の他に天文学や航海学・医学・地理学などの実用的な学問を伝えたほか、油絵や銅版画(どうばんが)の技法も広めました。やがて日本人の手による西洋画の影響を受けた南蛮屏風が現れ、南蛮人との交易や風俗が描かれました。
また、金属製の活字による活字印刷術(かつじいんさつじゅつ、別名を活版印刷術=かっぱんいんさつじゅつ)が伝えられるともに印刷機も輸入され、キリシタン版や天草版(あまくさばん)と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われました。天草版「伊曽保(いそほ)物語(=イソップ物語)」や天草版「平家(へいけ)物語」、日本語をポルトガル語で解説した辞典である「日葡(にっぽ)辞書」などが知られています。
南蛮人によって我が国にもたらされた文化を「南蛮文化」と呼び、カステラやパン・カルタ・コンペイトウ・シャボンなどのようにポルトガル系外来語として今でも残っているものがあります。
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