秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国と仰いでいた朝鮮は秀吉の要請を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提して、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、天正20年(文禄元年、西暦1592年)に起きた一回目の朝鮮出兵である「文禄の役(えき)」の本当のきっかけでした。
肥前(ひぜん、ここでは現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで多くの兵が飢えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。
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