要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように天下を統一して、それこそ数十万の兵力を持つようになったことで、初めて農民も抵抗を諦(あきら)めて、検地や刀狩に黙って従ったのです。
また、秀吉は天正19(1591)年に人掃令(ひとばらいれい、別名を身分統制令=みぶんとうせいれい)を出して、武士が町人や農民になったり、あるいは農民が商業を行ったりすることなどを禁止しました。これによって兵農分離(へいのうぶんり)が進むとともに、江戸時代の「士農工商(しのうこうしょう)」と呼ばれた社会秩序の基礎が確立しました。
もっとも、中世の惣村(そうそん)によって発達した自治的な村の運営は太閤検地後も続けられ、年貢などを村の責任で一括して納める村請(むらうけ)の制度も江戸時代に受け継がれました。
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