なお、田畑や屋敷地の等級に応じて、米の生産高を踏まえて定めた基準額である石盛(こくもり)を決め、石盛に面積を乗じたものが石高となりました。ちなみに、石盛の算定には先述した京枡を統一して使用しました。
また、検地帳(別名を御前帳=ごぜんちょう)には実際の耕作者の田畑や屋敷地が石高で表記され、それに応じて年貢と労役が課せられるようになりました。これを「一地一作人(いっちいっさくにん)の原則」といいます。この原則によって、一つの土地に何人もの権利が重なり合っていたのが整理され、その結果として長く続いた荘園(しょうえん)制度が完全に消滅しました。
秀吉は天下統一後の天正19(1591)年、全国の大名に対してその領国の検地帳と国絵図(くにえず)の提出を求めました。これによってすべての大名の石高が正式に定まり、大名に支配する石高に見合うだけの軍役(ぐんやく)が課される体制が出来上がるとともに、近世的な知行(ちぎょう)制度である大名知行制(だいみょうちぎょうせい)の基礎が確立しました。
なお、太閤検地によって農民は自分の田畑の所有権を法的に認められるようになりましたが、その一方で自己のすべての土地財産を大名などに知られることで、年貢の負担も厳しくなりました。天下統一が進んでいるとはいえ、いまだ戦国時代が続いているのですから、農民による抵抗があってもおかしくないはずなのですが、実際にはどうだったのでしょうか。
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