秀吉は毛利氏が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し」です。そして同月13日には京都の山崎(やまざき)で光秀と戦って勝利しました。これを「山崎の合戦」といいます。
敗れた光秀は、逃げる途中で落武者狩りの手にかかって死亡しました。ちなみに山崎の合戦で天王山(てんのうざん)を先に支配した秀吉側が勝ったというエピソードから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになり、また光秀のあまりにも短かった天下の期間から「三日天下」という言葉が生まれました。
その後、同月27日に行われた「清洲(きよす)会議」を経て、当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで、自らはその後見人となった秀吉は、織田家の家臣同士で敵対関係にあった柴田勝家(しばたかついえ)を天正11(1583)年に「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で滅ぼすなどによって、信長のつくり上げた権力と体制の事実上の継承者としての地位を確立しました。
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