我が国は絶対国防圏として、千島(ちしま)・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかくせん)において敵の侵攻を食い止めながら、航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲する敵に対する攻勢を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ=ボースの自由インド仮政府を支援するために、ビルマからインド北東部の要衝(ようしょう)であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19(1944)年3月に行動を開始しました。これを「インパール作戦」と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁(よう)したイギリス軍を相手に健闘しましたが、多数の犠牲者を出した末、同年6月に退却せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫る奮闘ぶりはイギリス軍を恐怖に陥(おとしい)れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
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