しかも、光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁いでおり、その間に跡継ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。それなのに、嗚呼(ああ)それなのに、信長は自分のこれまでの苦労を水の泡にするのみならず、家臣の縁者を見殺しにしようとしている。
絶望した光秀の、心の中に秘めていた爆弾がついに炸裂(さくれつ)しました。秀吉の毛利攻めに協力すべく、領地の丹波(たんば、現在の京都府中部など)を出発した光秀の軍勢は、京が近づくと突然進行方向を変え、光秀が高らかに宣言しました。
「敵は本能寺にあり!」
わずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた信長は、突然の光秀の謀反になすすべもなく、業火の中で49歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。時に天正10(1582)年旧暦6月1日から2日にかけての深夜でした。この大事件は「本能寺の変」と呼ばれ、我が国の歴史を大きく変えた出来事として知られています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。