通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつきました。
「鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈まないのではないか」。
こうして完成した鉄甲船(てっこうせん)は天正6(1578)年に村上水軍を散々に打ち破り、信長は大坂湾の制海権を握ることに成功しました。なお、最近の研究では、信長は鉄甲船を開発したのではなく、外国から南蛮船(なんばんせん)を導入して戦いに勝利したという説もあります。一方、毛利氏からの補給路を断たれた石山本願寺は徐々に追いつめられ、天正8(1580)年についに信長に降伏しました。
さて、およそ10年にわたって戦いを続け、そのために肉親や多くの家臣を失うことになった本願寺に対して、信長はどのような態度をとったと思われるでしょうか。
石山本願寺から退去し、以後は信長に逆らわないことが条件ではあったものの、何と今後の布教は自由としているのです。。
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