このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれました。京を動けぬ信長は、可愛がっていた弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、それこそ指をくわえて黙って見ていることしかできなかったのです。
宗教勢力によるこれらの無情な仕打ちに対して、信長は内心で怒り狂いながらも、じっと耐え続けました。そうこうしているうちに元亀元(1570)年も年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦(わぼく)が成立して、信長はやっとの思いで岐阜に戻ることができました。
講和が成立した背景には、兵農分離していない朝倉軍の都合もありました。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。こんなところにも信長との差がありました。
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