次の将軍職を目指していた義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、それまで匿(かくま)われていた越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)から離れ、義景に仕えていた明智光秀(あけちみつひで)の仲介で信長を頼りました。
それまでに北近江の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結び、妹のお市(いち)を長政の妻としていた信長は、この好機に早速上洛を決意しました。
信長は上洛の途中で南近江の六角(ろっかく)氏を破ると、永禄11(1568)年に無事に京へとたどり着き、義昭を将軍へと就任させました。名ばかりではあっても武家の棟梁(とうりょう)である室町幕府の将軍を誕生させ、また京に入ったことで朝廷を保護する立場となった信長は、天下統一に向けて大きく前進することになったのです。
義昭は、自らの将軍就任の最大の功労者である信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるよう勧めましたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。一見すると、いわゆる「名よりも実を取った」と思われる信長の行為でしたが、その裏にはしたたかな計算がありました。
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