信長は、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽に至るまで半ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、その家族を含めて少なくとも数万の人口が集中することになりますから、あっという間に岐阜は我が国有数の都市となりました。
人口が多ければ衣食住において商売が常に成り立ちますから、常設の店舗もすぐに定着しますし、信長は先述した楽市・楽座の政策を行っていますから多額の税を払う必要もありません。さらに、家臣が城下に定住しているということは、領民の安全が保障されるだけでなく、敵が攻めてきた場合にもすぐに戦えるという防衛上のメリットもありますから、まさに良いことづくめと言えますね。
岐阜を新たな城下町として繁栄させることに成功した信長は、大きな目標である天下統一への次の一手として、西の方角へその眼差(まなざ)しを向けていました。
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