さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜の名については、名君として知られた古代チャイナの周(しゅう)の文王(ぶんおう、または「ぶんのう」)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば、古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では日本武尊(やまとたけるのみこと)が「草薙(くさなぎ)の剣」でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承から地名が付いたり、あるいは足利(あしかが)氏や新田(にった)氏のように地名を自分の苗字にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。ちなみに信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前となり、例えば信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜(いまはま)の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。
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