義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制することが戦勝につながるという信長の考えがありました。
さて、義元の死によって今川氏は急速に勢力が弱まっていったのですが、ここで信長は通常の戦国大名とは全く異なる路線を歩むことになります。
なぜ信長はそのような行動をとったのでしょうか。この「なぜ」を理解することによって、私たちは信長の生涯をかけた「大きな目標」を目の当たりにすることができるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。