日親が6代将軍の足利義教の前で説法(せっぽう)した際には、激怒した義教に煮えたぎった熱い鍋を頭からかぶせられたという伝説が残っています。
京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、他の宗派と激しく勢力争いをするようになりました。天文(てんぶん)元(1532)年には「法華一揆(ほっけいっき)」を結んで一向一揆と対決し、山科(やましな)の本願寺を滅ぼして町政を自治的に運営しました。
しかし、その自治は長くは続かず、天文5(1536)年に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と衝突すると、今度は逆に京都を追われてしまいました。この戦いを「天文法華の乱」といいますが、延暦寺の僧兵によって焼打ちされた京都の被害は、あの応仁の乱を上回るものであったと伝えられています。
ちなみに、法華一揆の際に山科を追われた本願寺は本拠地を大坂(おおさか、現在の大阪)の石山(いしやま)に移しましたが、法華一揆の反省から防御力を高めた石山本願寺は城のような堅固(けんご)な要塞(ようさい)と化し、戦国大名と並ぶ大きな勢力を築き上げることになります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。