日朝貿易は、応永26(1419)年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永の外寇(がいこう)」によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合をまねた「通信符(つうしんふ)」が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは後述する琉球(りゅうきゅう)貿易で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦(さんぽ)に住む日本人と現地の役人との間で永正(えいしょう)7(1510)年に紛争が起きました。この「三浦の乱」によって、日朝貿易は次第に衰退していきました。
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