しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」は、朝貢貿易での下賜(かし)を目的として鋳造(ちゅうぞう)されたものであり、それを日本国内で流通させることは、いかに形式的とはいえ、我が国が経済的にチャイナの傘下(さんか)に入ったことを意味していました。我が国が独自につくった銅銭は、江戸時代の「寛永通宝(かんえいつうほう)」まで待つことになります。
さて、室町幕府が衰え始めた15世紀後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川(ほそかわ)氏と、博多の商人と結んだ大内(おおうち)氏の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、大永(だいえい)3(1523)年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突しました。この争いを「寧波の乱」といいます。
両者の戦いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、天文(てんぶん)20(1551)年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となり、先述した後期倭寇の活動が目立つようになりました。
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