足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)」では、数万人が京都を占拠して将軍の「代始めの徳政」を要求しました。
それまで正式な徳政令を拒否し続けた幕府がついに折れて徳政令を発布(はっぷ)すると、味をしめた土一揆がその後も頻繁(ひんぱん)に蜂起(ほうき)して徳政令を要求し、幕府もその度に応じ続けるようになりました。
なお、幕府による徳政令の中には債務額(あるいは債権額)の5分の1もしくは10分の1にあたる分一銭(ぶいちせん)と呼ばれた手数料を幕府に納めれば、債務の破棄や債権の保護を認めるという分一(ぶいち)徳政令というのもありました。
要するに徳政令を幕府財政の確保の手段として利用していることになりますが、中央政府自らが進んでこんなことをやっていては、室町幕府の権威や信頼が地に堕(お)ちるのは当たり前とも言えます。
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