これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって、延々と果てしなく続けられました。
その後、文明(ぶんめい)5(1473)年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の文明9(1477)年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
応仁の乱が終わったことで、守護大名はそれぞれの領国に戻りましたが、一度火がついた争いは全国に拡大して、各地の荘園も混乱の中でその多くが守護代(しゅごだい)や地方豪族である国人(こくじん)などの支配下に入りました。
また、応仁の乱の頃から大名の兵力の中で「足軽(あしがる)」の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地で暴徒化して略奪(りゃくだつ)を繰り返しました。
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