このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印はタイやイギリスの植民地あるいは蘭印と接近する要地であり、英米よりも先に進駐することで、我が国が南部で資源を獲得する望みをつなごうと考えられていたからです。
当時のフランスはドイツの激しい攻撃によって北半分が占領され、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が成立していました。我が国はヴィシー政権をフランスの正式な窓口として交渉を続け、最終的に合意したことで、第三次近衛文麿内閣が誕生した直後(つまり、北進論者の松岡洋右が外務大臣を追われてすぐ)の昭和16(1941)年7月28日に、日本軍が「南部仏印進駐」を開始しました。
以上のように、南部仏印進駐は先に行われた北部仏印進駐と同様に、当時のフランス政府との間で決められた合法的なものであったのですが、このことがヴィシー政権を認めていなかったアメリカによる「我が国へのさらなる報復措置」を生んでしまったのです。
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