日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統領とは旧知の間柄であり、少しでも交渉に有利になるようにという願いが込められていました。
交渉は野村大使とアメリカのハル国務長官との間で続けられましたが、松岡洋右外務大臣が日ソ中立条約を結ぶなど事態が複雑化し、交渉は容易にまとまりそうもありませんでした。このため、近衛首相は日米交渉の障害になると思われた松岡外相を除くために一旦内閣を総辞職し、昭和16(1941)年7月に第三次内閣を組織しました。
なお、松岡外相は確かに対米強硬派でしたが、同時に熱心な「北進論」者でもあり、自ら結んだ日ソ中立条約を破棄してでも日独伊三国同盟を優先し、ドイツと一緒に東西からソ連を挟撃(きょうげき)すべきだと主張していた人物でした。
松岡が外務大臣を辞めさせられたという事実は、我が国が北進論を取りやめ、英米との対決も辞さない南進論へと国論が大きく傾いたことを意味していたのです。
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