しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで開かれた御前会議において、南方への進出を決定したのです。
なお、ソ連への攻撃は情勢が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州などに約70万人の兵力を集結させた「関東軍特種演習」と呼ばれた動員も8月に中止されましたが、この決定を誰よりも喜んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機が回避されたソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
かくして、アメリカを牽制(けんせい)するために我が国が結んだはずの日独伊三国同盟や日ソ中立条約は結果としてことごとく裏目に出てしまい、ソ連(=コミンテルン)のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)らが強く主張していたとおりの南進論を選択してしまったことになります。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激し、さらなる苦難が我が国を待ち受ける事態となってしまうのでした。
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